The 57th meeting of the Japanese association of educational psychology

The 57th meeting of the Japanese association of educational psychology

Aug 26 - Aug 28, 2015Toki Messe (Niigata Convention Center)
The Japanese Association of Educational Psychology
The 57th meeting of the Japanese association of educational psychology

The 57th meeting of the Japanese association of educational psychology

Aug 26 - Aug 28, 2015Toki Messe (Niigata Convention Center)

[JD03]「学び」を成立させるものは何か学習者中心から主体的学びを考える

たなかよしこ1, 野崎浩成2, 小山義徳3, 河住有希子4(1.日本工業大学, 2.愛知教育大学, 3.千葉大学, 4.日本工業大学)
1.企画趣旨
これまでの自主シンポジウムにおいて,「学力低下とリメディアル教育の実践と課題」(小山ほか2010),「教科学習を支える『学習言語』―生活言語から学習言語」(たなかほか2013)に取り組んできた。しかし,これらは,大学教育での視点に立脚しており,高校から大学への円滑な接続についての議論が不十分であった。そこで,本シンポジウムでは「生涯学び続ける人材」を求められる今日,そもそも「学び」とはどうようなことで可能になるのかを考えたい。学校の中での学びではなく,生涯にわたって学びつづけるという視点を求められるということは,学校での学びを成り立たたせるものは何か,そして,社会に出て生涯学び続けるためには何か必要か,そのために必要なモノ・コト・何かを,改めて話し合う。

2.話題提供
話題提供1 学習者中心主義についての一考察
野崎浩成(愛知教育大学)
一般に,学習者中心主義とは,「知識は教師から一方的に与えられるのではなく,学習者が自ら獲得していくものである」というのが基本的な考え方であるといえる。伝統的に行われている一斉授業とは,①教師がリーダーシップを発揮し,②多数の児童・生徒がひとつの場所に集まり,③児童・生徒は同じ年齢で,④専門の知識や技能を持つ教師が限られた時間内で知識を効率よく伝達していく,というものであるが,これでは,学習者の主体性が発揮できず,児童・生徒は教師の指示に従っているだけで,主体的学びにつながらない,と指摘されるようになってきた。そこで,「教師中心主義から脱却し,学習者中心主義への転換を図っていこう」といったような教育的価値観が重視されるようになってきたといえる。果たして,それは,本当に「学習者中心」といえるのでしょうか。また,このような教育的価値観が,学習者が主人公となって,自ら学び,自ら進んで課題に取り組むという主体的学びを促すことになるのでしょうか。
その一方で,生涯学習や成人を対象とした教育では,上述した「一斉授業の①~④」は全く当てはまらない。⑴高い動機づけを持つ学習者が,自らの知識や技能を十分に把握しつつ,自分に合った学習環境を自らチューニングしていく,⑵学習の目標や計画は,学習者が個別に組み立てていく,というのが本来の生涯学習の姿であるといえる。このような学習者中心の教育は,対面授業のみならず,インターネット大学のようなICTの活用も不可欠になってきている。知識は学習者の外部環境にも存在するものであり,教材を介した教師・学習者同士のコミュニカティブな活動が主体的学びへとつながっていく,という姿勢も重要となってくる。まさに,このような学びこそが「学習者中心」であると筆者は考える。
そこで,本発表では,多くの学校で行われている一斉授業を中心とした学びから,生涯学習への円滑な移行を図り,「主体的学び」ができる学習者をいかにして育てていくのかについて,学習者中心主義をキーワードにして考察を深めて行く。

話題提供2 主体的学びにおける「問い」の役割
小山義徳(千葉大学)
学習者が主体的に学ぶためには,「問う」スキルを身につけることが必要である。「問う」ことができれば,課題を設定することが可能となり,その課題に取り組むことで,新たな「問い」が生まれ,再び探究的な学習を行うという「探究学習」のサイクルが機能する。
しかし,「問う」というスキルは簡単に獲得できるものではない。一見,多くの質問をしていそうな小学校においても,生田・丸野(2004)は児童のほとんどが,授業中に質問を思いついていないことを報告している。これは,教室において,「教師が「問う者」で,児童・生徒は「答える者」である」という暗黙の了解が定着してしまっていることによると考えられる。
それでは,学習者が自発的に「問う」ことを促すには,どのような取り組みが必要であろうか。生田・丸野(2005)は,Dillon(1988)らの理論を元に,質問生成の認知プロセスを「疑念感の生起」,「質問生成」,「質問表出」の三段階に分けた。この中でも,本発表では「疑念感の生起」に着目する。何かの資料を読んだり,講義を聞いたりした際に,学習者の疑念感を生起するには,学習者が「既に知っていること」と,資料や講義で「見た(聞いた)こと」のギャップに気づけなければいけない。そこで,本発表では学習者の「自己モニタリング」を促し,自分の「知っていること」を明確にすることで,「学習事項とのギャップ」に気付きやすくし,学習者の質問生成を促す実践について述べたい。

話題提供3 「無難な答え」を学生自身の思考と問いへ
河住有希子(日本工業大学)
教育場面において,教員からの問いに対し,学生が何をどう考えて答えているのかを,授業実践に基づいて報告する。それを元に,教育場面での教員と学生のやりとりを,どのような方向性をもって行うかを議論したい。
ここで文章作成の授業を例に挙げる。文章作法を指導し,各自でテーマを設定して文章を書くという課題を与えると,学生は「地球温暖化防止」「いじめ対策」など,自分自身の興味関心や知識の多寡に関わらず,いわゆる一般的なテーマを選ぶことが多い。どこかで「模範解答」を聞いたことがあるような話題であれば,自分の思考とは関係なく文章が書けてしまう。一方で,このような学生に対して,自分がよく知っていることを書くよう指示すると,途端に何もアイデアが生み出せなくなることがある。
別の例として,学生に大学進学の理由を聞いた時には,多くが「専門知識を身に付けて良い会社に就職するため」と答えたが,これも一般的な回答であり,自分にとってどのような会社が良い会社で,そのような就職をするために何をすべきか,という問いに対する答えはない。どこかで耳にしたことを反射的に「回答」しているに過ぎない。
質問や課題が「与えられた」ときに,自ら思考を言葉にして答えるのではなく,その質問や課題を与えた教員等が,ひとまず納得するような「無難な答え」を選んで「回答」しているだけのようにも見える。
IT機器を用いて情報が簡単に入手できる現在,様々な問いに対する「一般的な回答」も容易に入手できるようになった。そして,この「一般的な回答」は,教員と学生のやりとりを「とりあえず,こなした」ように見える程度の内容を持っており,学生にとっては深い思考を回避し「手っ取り早く」「無難」にやりとりを終えるための手段にもなる。
しかしながら,学生自身による思考と問いが不在であることが,学びにとって負の要因となることは明らかである。学生が自分自身の言葉で何かを伝えようと思うきっかけをつくり,学生の思考を刺激すために,どのような姿勢をもって,学生に何を問うかについて議論したい。

話題提供4 「学び」を成立させるための教師の態度 親身・シンセツ・フシンセツ
たなかよしこ(日本工業大学)
ここまで,いくつかの話題提供を受けてきた。大学での学びを中心とした「学び」を捉えるときに,「自分が勉強したいと思った」者が選択的に大学に入学している時代から18才人口の約半数が大学進学をするユニバーサルアクセス型大学へと多くの大学が変化する中,大学はかつての中等教育機関と同じ悩みをもつことになる。つまり自主的に入学したのではない学生,ある特定の分野に興味を持って進路選択したのではない学生,大学文化になじみのない1stジェネレーションの学生が,「生涯学び続ける」ということを育成しなければならない。
この「学び」を考えるときに,「学力」という捉え方をすることは,学校文化には合致しているものであり,当然,何らかの保証としてある数値化された学力を十分備えることが必要であろう。一方,社会で学び続けるという人材となる,ということは学校文化とは切り離されたところで学ぶことになるだろう。そこにはテストもなければ,カリキュラムもない。その環境で,自分のいる環境の中から,何を学ぶべきかを見出し,それを自分の人生の中で価値あるものと捉えなければいけない。仕事で上司から何何を学べと言われて学ぶこと,資格試験をとって転職を考えることなどが生涯学び続ける人材という意味ではないことは推測できる。
それでは,どのような姿勢を持てば,生涯学び続けることができるのか。ここでいう「学び」はテストのためでもなく,報酬のためではないことは明らかである。予測困難な社会において(今まで予測が安易だったかどうかはわからないが・・),よき市民として自分の生活および生活の根幹である国(環境)のありようも含めて,変化しつづける中で,学び続ける目的は,社会構成員としての役割であり,その社会のゆくえも担うことである。
このような学びは,学校という「学び」を目的とした機関の中とは根本的に異なる。評価者は他者ではなく,何かの評定が結果として出ることもない。自分で自分の成長や変化を知り,その変化の中で何かを取捨選択し,より必要なことを自分で学習していく姿勢を持つことでしかないといえる。筆者は,そのような力として一番必要なのは,自分の学びを自分で振り返りつづけること,であるとし,大学教育の四年間でそのような自分の学びの姿勢を自分で評価し,振り返ることを育てるちょっとフシンセツな,学習者の主体性を「真ん中」においた事例を述べたい。

附 記
科研費(基盤研究(C))「学生の自己評価に基づいた個票による継続的自己教育力育成支援システムの開発と評価」(25330414)の助成を得た。