The 58th meeting of the Japanese association of educational psychology

The 58th meeting of the Japanese association of educational psychology

Oct 8 - Oct 10, 2016Sunport Takamatsu / The Kagawa International Conference Hall
The Japanese Association of Educational Psychology
The 58th meeting of the Japanese association of educational psychology

The 58th meeting of the Japanese association of educational psychology

Oct 8 - Oct 10, 2016Sunport Takamatsu / The Kagawa International Conference Hall

[JB06]学習支援としての説明は本当に有効なのか説明研究の現在と今後への道標

伊藤貴昭1, 山本博樹2, 吉田甫3, 佐藤浩一4, 小林寛子5, 湯澤正通6(1.明治大学, 2.立命館大学, 3.立命館大学, 4.群馬大学, 5.東京未来大学, 6.広島大学)
企画主旨
 公認心理師の資格が創設されたことからもわかるように,我々には学習者の抱えるつまずき(学習不振)を診断し,教育関係者と連携して心理的支援を提供することが求められるようになっている。こうした状況下において,学習不振を抱える学習者に我々が提供する支援,特に情報的支援の一つである「説明」の役割がますます重要なものとなっているといえよう。
 しかし,「説明」を取り上げた研究が盛んに行われてきたにも関わらず,有効だと支援者が想定して(信じて)呈示した説明が学習者には見事に役立たない場合も実際には多く見られるのが現状であろう。いわば,支援の無効性問題である。
 この問題の背景には,「説明」を対象とした研究が見過ごしてきたメカニズムが介在している可能性がある。学習支援としての説明が真に有効なものとなるためには,ここにどのようなメカニズムが介在し,支援の無効性につながってしまったのかを検討する必要があろう。
 そこで今回のシンポジウムでは,情報的支援の中心となる説明に焦点を当て,支援の無効性(あるいは有効性)問題を検討したい。これまでの説明研究の成果も踏まえ,具体的な事態を取り上げて,そこに介在するメカニズムを読み解きながら,学習支援に役立つ説明のあり方について議論を積み上げていきたい。これによって,学習支援者だけでなく,説明研究に取り組む研究者にとっての今後の道標を探る一つの契機としていきたい。
高校初年次生の理解不振に対する説明表現の有効性
―支援モデルからみた効力観―
山本博樹(立命館大学)
 「説明 (explain)」は「ex」と「plain」からなり,「平易にする」という意味を持つ (比留間・山本, 2007)。ここからすると,説明とは,受給者の理解不振を「理解」へと改善する目的達成的な過程と言える。この点を詰めると,受給者の目的達成が主眼だから,受給者を「最後の審判」として「戴く」という発想も出てくる。この「最後の審判」における目的達成はあまりにも主体的な活動ゆえに,説明はそれを支援する過程とならざるを得ない。このような説明の捉え方を支援モデルと呼ぶことができるが,これは学習支援の発想に通底する。
 学習支援とは,学習者の不振を支援ニ-ズとして汲み取り,学習の達成に向けて支援を提供する過程であった。もともとは,House (1981) のソ-シャル・サポ-ト理論を授業に取り入れたものである。この理論では4種類の支援 (情報,道具,情緒,評価) を想定するが,この枠組みの中に,説明は位置づけられてきた。これを踏まえて,発表者は上述したように,説明を支援過程そのものとして捉えるという独自の発想を導出してきたわけである。
 ところが,こうした支援モデルによって説明を捉えるならば,有効性問題を譲り受けてしまう。山本 (2009) は,支援を提供すれば直ちに有効性が得られるという効力観 (availability) は単純過ぎると指摘してきた。これは説明にも該当することになり,その有効性は,受給者要因により調整される効力観 (accessibility) として捉え直すべきことになる。
 今回の発表では,高校初年次生の理解不振に対して提供する説明表現の有効性が,受給者である彼らのdeficiencyによって調整されるというデ-タを示したい。これを基にして説明表現の効力観を考えてみることで,以降の議論のステップにしたい。
授業に見える説明の「クセ」
佐藤浩一(群馬大学)
 筆者は教職大学院での指導のため,年に30~40時間程度,小中学校の授業を参観している。教師や教科書の説明・指示には,学習を混乱させる「クセ」があるようだ。これらは意外と気づかれていないと思われる。
 1.抽象的すぎる 例えば国語で「キーワードを探そう」と指示する。「繰り返し出てくる言葉を□で囲みなさい」と指示すれば低中位の児童にも取り組めるし,キーワードが一目でわかる。
 2.意図を説明しない 例えば算数で「問題が解けた人は別のやり方でも解きましょう」と指示する。「どちらの解き方が計算しやすいか比べましょう」と説明すれば次の学習にも生かせる。
 3.理屈抜きで手続きのみ教える 例えば家庭科でゆで卵を作る時,「まず卵を洗う」とだけ指示する。「見えないゴミがついているから」と理由まで説明すると,納得して実行されやすい。
 4.婉曲な表現 例えば算数で複雑な立体の体積を求める時,「面積で同じような問題を考えた時はどうしたかな」とヒントを与える。それがどんな問題か示さなければ,ヒントにならない。
 5.詳しすぎる 難解な語(例:具体,抽象)を使ったために,その語の説明をして,説明が複雑な入れ子構造になってしまう。また既習事項に触れるが,児童生徒の側で既習事項が曖昧だと,やはり説明が複雑になる。
 6.道具に凝りすぎる 映像やワークシートなどの道具に凝りすぎる。そのため説明がわかりにくくなったり,活動にどう取り組めばよいのか混乱してしまう。
 もちろんこれでも支障ない児童生徒はいる。しかし低中位の児童生徒のことを考えると,何をすればよいのか,どうしてそうすればよいのか,具体的かつシンプルに伝える説明が必要である。
自己説明を促す支援
―どのようなテキストを自己説明させるとよいのか-
小林寛子(東京未来大学)
 教室場面における学習は,主に,教授する側と学習する側の相互作用によって成立する。したがって,学習支援としての「説明」の有効性を考える際には,教授者はどのような説明を与えるべきかという視点と共に,学習者が与えられた説明にどう取り組むかという視点も必要であろう。本研究では特に,学習者が誤概念をもっている場合の「自己説明」という取り組みに着目する。自己説明とは,「文章や他の媒体に提示された新しい情報を意味づける試みにおいて,自分自身への説明を行う活動」と定義される(Chi, 2000)。
 自己説明は,Chiら(1994)によって提唱された際,与える「説明」(以下,自己説明と混乱をさけるために「テキスト」とする)に不十分な点を残し,その点を推論によって補いながら学習者が説明を構築することを重視していた。しかし,こうした自己説明やその効果は,学習者が誤概念をもっていて,正しく推論するために必要な知識を有していない場合には期待しにくいと考えられる。本発表では,以上のような問題意識に基づいて,学習者の概念変化を目的とした自己説明の支援を検討した2つの研究を紹介する。1つは,教師が必要な情報を十分と考えられる形で教授した上で,学習者に教えられた内容を自分の言葉で説明し直させることの効果を検討した研究である。もう1つは,正しい内容を教授した上で,さらに,間違った考えの例を示し,どこがどう間違っているのかについて説明させる効果を検討した。発表では,2つの研究で提示したテキストと学習者の生成した説明を示し,学習効果を検討していく。自己説明支援のあり方について,学習者に与えるテキストとの関係から論じていきたい。
説明者と聞き手の認識の不一致に着目して
伊藤貴昭(明治大学)
 学習支援という文脈において,説明が真に有効なツールとなるためには,説明者と被説明者(聞き手)との間で,いったいどのような相互作用が生じているかについて,これまで以上に詳細な吟味が求められるようになってくるはずである。つまり,筆者がこれまで取り組んできたような実験室実験における統制群と実験群の比較から言えることを示すだけでは不十分であり(不要であるわけではない),それに加え,ある説明者と聞き手との間でどのようなやり取りがなされ,それはどのような認知的プロセスに支えられていたのかについて,そのペア固有および活動固有の特徴を捉えていくことが必要である。なぜなら,学習支援のツールとして説明が有効にならないことがあるとすれば,平均値の比較では捉えきれなかった固有の現象やプロセスにこそ解決の糸口があると考えるからである。
 本発表では,1組の大学生ペアによる説明場面を取り上げ,特に説明者と聞き手の認識のズレ(不一致)に焦点を当てて検討した結果を紹介する。説明者および聞き手が暗黙の裡にせよ仮定している認識があり,かつそれがズレてしまっているならば,それを解消することが,説明が有効に機能するための一つの指針となり得るからである。同時に,説明研究の今後の道標として,こうしたプロセスを詳細に見ていく必要性についても議論したい。