The 56th meeting of the Japanese association of educational psychology

The 56th meeting of the Japanese association of educational psychology

Nov 7 - Nov 9, 2014Kobe International Conference Center
The Japanese Association of Educational Psychology
The 56th meeting of the Japanese association of educational psychology

The 56th meeting of the Japanese association of educational psychology

Nov 7 - Nov 9, 2014Kobe International Conference Center

[j-sym02]わかるとは

森岡正芳1, 田島充士2, 宮崎清孝3, 溝上慎一4, 野村晴夫5, 佐伯胖6, 中村和夫7(1.神戸大学, 2.東京外国語大学, 3.早稲田大学, 4.京都大学, 5.大阪大学, 6.公益社団法人信濃教育会 教育研究所, 7.京都橘大学)
【企画主旨】
 「わかるとは」教育の現場では,もっとも重要な課題である。子育て保育や学校教育の場で学習と発達に関わる教師,保育士,養育者たちは,子どもたちが取り込んでいる教科内容の理解が進む,技能が上達することへの手ごたえに喜びを感じる。子どもたちはどこがわからないのかをまず把握し,冷静な現状の分析と適切な教材研究と教授法の開発が求められることはいうまでもない。
 また,学校,養護施設,自立支援施設で働く心理士が多くなった。現場でどのような知識と技能が求められるのだろう。たとえば社会的養護の現場で,子どもたちがどのような困難をかかえているかの見立ては,多職種協働という場で,誰にもわかるように伝えられ,共有されることが必要である。他方で,子どもたちの行動を客観的な測定にもとづく把握だけではなく,生活の場で実践者が関わりいっしょに動いているさなかで,子どもたちの姿がどのように立ち現れるかを把握し,共有する。このような知のあり方が模索されている。
 教育や対人援助の場では,対象を見きわめ特定し,分類する知(aboutness knowing)だけでなく,対象がどうあるのかをいっしょに探る知(withness knowing)の両者が必要である。この二つの知をどのようにつなぐか。現代の教育心理学研究の大きな課題として浮上する。
 わかることには複数の次元がある。熟達化のプロセスは知的理解の次元だけでなく,身体レベルで場になじみこむことが欠かせない。学習は反復が基本である。そのときはよくわからぬこともまずは繰り返して身に付ける。身体からわかること(embodiment)の大切さはよく指摘されるが,知的理解の次元とどのような質の違いがあるのだろうか。
 わかることは,対象を自分の世界にひきつけるという側面がある。そうすると対象は固定され限局される。教育の場でも臨床の場でも,子どもたちの能力に対する専門家による分類の言葉は有力で,固定した実体として扱われやすい。実践場面でもっとも警戒すべきことは,言葉の習慣的な使用による意味の平板化,固定化である。「自分がすでに知っていることだけが明らかになるように言語を用いるならば,生はきわめて単純なものになる」(Stern,D.B.1997)。「わかったつもり」が世界を卑小化してしまう。
 「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう。」(上原専禄)
 本当にわかるという体験は,関わる方の私に自分がわかっていなかった,知らなかったという驚きが伴う。この驚きは実践者,研究者の側に内省(reflection)を引き起こすのである。自身の思い込みを反省しつつ,さらに相手に関わり問いかけてみたくなる。
 よくわからないこと,未確定のことはむしろ発達成長の可能性を暗に示してもいる。一人一人の子どもに応じた発達の近接領域をともに作り,いっしょに歩む。このような態度は学校家庭での教育や,対人援助の場でさらに活かせるのではないか。学校や家庭の生活文脈の中で,自己と他者相互理解の成り立ちを明らかにしていくことは,教育心理学の実践的課題として重要である。
 以上のような課題をめぐって,このシンポジウムでは,学校教育や対人支援の最前線の研究者に話題提供をいただく。そして,わかることの研究に長年打ち込んでこられた二人の代表的研究者に討論をいただき,多面的で,創造的な対話の場が生まれることを期待したい。

「分かったつもり」のメリット・デメリットとは 田島充士(東京外国語大学)
 発表者は,授業の中の交流では学んだ知識を運用できるが,異なる学習文脈を背景とする者との交流では使用できない学習者の「分かったつもり」(田島, 2010)と呼ぶ現象の検証に取り組んできた。特定のことばを「理解する(分かる)」ということは,バフチンおよびヴィゴツキー理論の観点から,様々な文脈を背景とする関係者とそのことばを介した交流に十全に参与できることと考えている。特定の解釈に到達することそのものではなく,むしろ,他者から突きつけられた疑問に応じ,その内容を再編集できる柔軟性を得ることが理解なのだということである。その意味では,特定の側面からのことばの解釈しか行うことができない分かったつもりとは,その柔軟性に欠けるという点では,デメリットが多い。しかし一方で,その解釈を軸として,新たなアイディアを持つ他者との出会いを可能とし,学習者なりの多面的な解釈を探求する契機を提供できるという大きなメリットがあることもまた事実である。本発表では,分かったつもりに関する検証を進め,その視座から,他者との豊かな出会いとしての理解について考察を深めてみたい。

授業の中で分かるということ−教師という項からみて 宮崎清孝(早稲田大学)  1001537
 授業の中で学習者(たち)が教授者と協働的にわかっていく活動は,わかりが協働的に生成される典型的な事態である。その基本構成要素は学習者(たち)と教授者と,さらに両者にとって学ぶ対象である学習材の3項である。学習者が学習材を学ぶだけではなく,教授者も学習者として学習材を学んでいる。学習者と教授者は,学習材という世界の中で共にあり,関係し合い,学習材を共に学ぶという3項関係がそこにある。教授者の学習材についてのわかりが,学習者のそれについてのわかりに大きな影響を与える。また教授者の学習材についてのわかりは学習者を教授者がわかることにも大きく影響し,また逆に影響される。さらにこの中で教授者は自分についてもわかっていく。このわかりの3項関係と,そこで教授者の学習材についてのわかりが持つ大きな力は,日本の教育実践の中では知られている。たとえば『極地方式』では「教師の学習する内容・学習形態は,同時に子どもの学習内容・学習形態である」とする(高橋・細谷,1974『極地方式入門』国土社)。しかしこのことは,学習についての心理学的な理論では,協働や参加をキー概念にしているはずのものでもまったく考えられてきていない。ここでは対話的な授業論の立場から,その基本としてのわかりの3項関係について,「問いと答えの弁証法」(ガダマー,2008 『真理と方法』)などの理論を意識しつつ,考えていく。

「自分がわかるとは」 溝上慎一(京都大学)
 「自分がわかる」とは,字義的には「自己理解」と同義だが,学術的には自己理解はおおざっぱな用語であり,分解して諸次元から理解しなければならない。本シンポジウムでは,以下の観点から「自分がわかる」を理解したい。①主客による自己認識(自己知覚・自己像・自己概念):心理学で言えば,William Jamesに始まる「知る自己(I)」「知られる自己(Me)」の古典的・伝統的な主客の構図による自己知覚である。②児童期から青年期にかけてのアイデンティティ探究初期:自己像は幼児・児童でも持っていることは多くの研究が明らかにしてきたことだが,それがアイデンティティ探究としての自己理解にどう接続していくかは,ほとんど研究がなされていない。十分な見解は示せないが,共同研究としておこなってきた実証的結果をもとに理論的考察を試みたい。③さまざまな私の葛藤・統合としての自己理解:多元的自己をさまざまな私の無秩序な集合体と見るのではなく,それぞれの私が分権的に存在しつつも,全体の自己に構造的に依存する,しかし場合によっては私同士が衝突をし,構造を見出す。衝突を解決することが全体の自己の統合やより確立した状態へと向かうと考えるHermansの対話的自己論を紹介する。時間があれば,最後に,時間の経過による自己の自動的再構成の問題を理解したい。人の持つ記憶機能の問題であり,日常的・経験的にもおもしろい事項である。

生活史について「わかる」ということ
野村晴夫(大阪大学)
 臨床面接や調査面接で,人の生きてきた歴史である生活史を聴く時,その人が生活史について「わかる」ことの諸相に出会うことがある。たとえば生活上の苦難を契機に当惑し,さまざまな疑問が湧き起こり,わからなくなった生活史が,語られる内に「わかる」ようになることがある。また,わかっていたはずの生活史が,語られ,想起される内に揺らぎ,今までとは異なった「わかる」状態に至ることもある。あるいはまた,より確かに「わかる」ように,繰り返し同様の生活史が語られているように聞こえる場合もある。こうした「わかる」ことの諸相からは,生活史を想起し,語ることの機能がうかがえる。生活史の語りには,わからない経験を組織化し,意味づけることによって,「わかる」ようになろうとする過程が見出されるのではなかろうか。自身の来し方への関心が高まると言われる中年期から高齢期に着目し,生活史を自ら「わかる」ことの諸相と,そこに関与する想起と語りの機能について,臨床・発達心理学的観点から話題提供してみたい。