講演情報

[14-O-L006-01]歌唱による自己表現がもたらした肯定的感情の経験

*奥田 真希子1 (1. 神奈川県 レストア川崎)
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疾患の影響により、精神状態が不安定なA氏に個別音楽療法を実施したところ、気持ちに変化が見られたので報告する。A氏が選曲し、音楽療法士が伴奏しながら一緒に歌唱した。その結果、集中して取り組み、歌唱後には肯定的な感情を経験していることが示唆された。一方で日常への般化には至らなかったため、実施するにあたり、対象者に合わせた回数や時間等の検討も必要ではないかと考える。
【はじめに】
当施設では、非常勤の音楽療法士(筆者)が在勤しており、定期的に音楽療法を実施している。今回は取り組みの一例として、歌唱を主とした個別音楽療法を報告する。
【目的】
対象者A氏はアルツハイマー型認知症やさまざまな精神疾患があり、自傷行為や独語が見られていた。また他者の言動に影響を受けやすいため、座席は他者が視界に入りにくい場所に配置された。活動の提供が難しくなっていたが、ある特定の歌手の曲を好むことから、他職種の職員より個別音楽療法の依頼を受ける。「活動に参加すること」を第一の目的に、快の気分を体験できるようにと願い、開始した。
【方法】
月に2回~3回、約30分の個別音楽療法を計40回実施。薬の変更等により精神状態が不安定だったり、入院や生活フロアにて感染症が流行している際には中止。A氏の好きな曲の中から2曲ずつ提示、18回目以降はこれまで実施した曲目リスト(17曲)を作成して提示、いずれもA氏が選曲した。音楽療法士がキーボードで伴奏をし、毎回4曲程を一緒に歌唱した。
【結果】
初回は「気持ちが悪い」と拒否があったが、地下大会議室に移動し、前奏から足でリズムをとり、しっかりとした声で歌唱する。翌回は移動後に「戻りたい」と叫び、実施できなかった。2回目も「寝ていたい」と拒否が見られたため、職員と相談し、以降は居室での実施に変更した。
新曲を追加した際には「若いから覚えが早いわよ」と音楽療法士を励ましたり、開始前に練習してきたことを伝えると、「その曲からでいいですよ」と選んでいる。また音楽療法士からもA氏の好みそうな曲を提案し、「いいね」と答えた『さざんかの宿』『昔の名前で出ています』等も追加した。曲目リストの提示に変更すると、「どんな歌だっけ?」と尋ねることが増え、少し歌って示すと「それがいいわ」と選ぶこともあった。また、歌唱後に再度同じ曲を選んだことに気づくと「せっかくだから違う曲」と選び直し、歌唱している。
歌唱は前奏や間奏をハミングすることが多く、歌詞カードを見ながら歌う。時々歌詞を見失うこともあるが、音楽療法士の声を聴いて落ち着いて歌い直すことができている。音域の広い曲が多く、A氏は実音のまま歌唱することもあれば、部分的に1オクターブ下げて歌唱する等、曲に合わせて対応していた。高音が出ていたことを伝えると、「そうですか、夢中だから」と照れ笑いをし、「いい曲ね」「気分がスッキリした」等と気持ちを述べた。歌唱後には、A氏の気持ちが流れている事実に着目して質問をすると、幼少期や家族、職業について答えている。また、幸せな時間について「歌ったり、ご飯食べたり。痛いところもないしね。」と表情が緩み、「ケーキより和菓子」「森より海がいい」等と自身について話した。
顔を見ると音楽療法士のことを「歌の人」「赤が似合うわね」と話したり、目が合うと微笑んで会釈をすることが増えた。33回目の移動時には自ら手をつなぐこともあった。
【考察】
拒否の度合いは毎回異なり、不安となっている事象の解決策を具体的に述べたり、一度距離を置いてから誘うことが有効であった。初期においては、音楽療法士が戸惑い、A氏の不安をさらに増幅させていたことも拒否の一因だったと思われる。
選曲でのA氏の姿は、交流することを楽しみながら、「せっかくだから」とこの時間への期待や意欲が生まれていると考えられた。それはまた歌唱への集中力につながっていることが、前奏をハミングしている姿からも想像できるであろう。瞬時にその場で自身の声の高さに合わせて歌い、音楽に対する柔軟性も見られていた。また歌詞を見失っても不穏になることなく、音楽療法士の声を頼りに歌い続けることができたのは、信頼感が生まれていたと推測される。共に歌い、お互いの音楽表現を受け取りながら交流をしたことで、歌唱後には自然な流れで自身を紹介したり、「スッキリした」と思考が整理される等の肯定的な感情をA氏自身が味わっていたことが示唆された。音楽療法以外の場面でA氏の中に音楽療法士の印象が形成されていた言動が見られたことは、この感情経験が関与しているのではないだろうか。
職員からは、A氏が参加をし、歌唱していたことに対しての安堵や喜びの言葉が聞かれ、「活動に参加すること」の目的は達成することができた。また不安な言動が見られても、個別音楽療法中にA氏の気持ちに変化が起きていることも確認できた。一方で、日常への般化には至らなかったという課題が残った。対象者が安心して取り組める場を作り、気持ちの変化を実感できる時間をより多く提供することで、日常においても精神状態の安定につながる可能性があるのではないだろうか。一人一人に合った実施回数や時間の検討も重要となる。この体験を活かし、対象者の生き方につながることを考えながら、実践していきたい。