30周年特別寄稿
SSII30周年を記念し、SSII創設者のおひとりである中島真人先生に、SSIIの誕生とその変革にまつわる表話から裏話まで、故・高木幹雄先生とのエピソードを交えて、6ページにわたりご執筆いただきました!
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第30回画像センシングシンポジウム SSII30周年記念特別寄稿
高木幹雄先生のこと、SSIIのスタート、
リニューアルそしてポストタカギのこと
中島 真人 会友
慶應義塾大学 名誉教授
E-mail: masando_njima_kojpn[at]me.com
1. はじめに
SSII2024の実行委員長入江豪先生からの「SSIIがスタートした頃のこと、SSIIの創始者高木幹雄先生のこと等、最近の若い会員の人たちが知らないことを教えて欲しい」とのご依頼にお応えするために筆を執りました。まず、高木先生はどんな方だったかからお話し致しましょう。
2. 高木幹雄先生のこと
私が高木幹雄先生に初めてお会いしたのは、遥か54年前のことです。私が東京の外れ田無にあった ‘電総研’*1で研究していた頃、立ち寄られた尾上守男先生*2に賜った「一回話に来ませんか!」とのお誘いに応じ、六本木の東大生研に当時の私の研究(光情報処理)の話をしに伺った時のことです。私の講演後、のそっと現れた高木先生を尾上先生は「助手の高木君」とご紹介下さいました。私は若干26歳、高木先生もまだ33歳のお若さでした。‘優しい感じの大きな人’という第一印象が残った初対面でした。尾上先生も当時の人にしては大柄な方でしたので、二人の大男に挟まれ、ずっと萎縮気味だったことを覚えております。
歳月が巡り、私が48歳の時です。非破壊検査協会主催の ‘産業のための画像センシング技術シンポジウム’(高木先生が1986年からオーガナイズされている学術集会)の席で、唐突に「この会、そろそろ終わりにしたいと思ってるんだけどねェー」と、私を前にしてあたかも独り言であるかのように言われたのです。同シンポジウムは、確かに参加者数が150人を切り、‘前途霧中’ といっても過言ではない状況であったように思います。
一瞬脱線します。輿水大和先生を知ったのもこの会です。若く溌剌としたシャープな講演(今はそんな雰囲気、微塵も感じられませんが)に引き込まれ、講演後に歩み寄って声を掛けさせて頂いたほどです。最近、輿水先生もその時の光景を「覚えている」と仰っておりました。
元へ、「いやー、‘画像センシング’ はこれからですよ! 組織を立て直して再出発しては如何でしょうか?」、「そーだねェー、じャー、中島先生やってくれますか?」・・・「冗談でしょー」程度に思っていたそんな会話が現実のものとなり、翌年1995年には、高木先生を会長に独立学術団体としての‘画像センシング技術研究会’ が発足し、その主催による ‘画像センシングシンポジウム’(SII: Sensing via Image Information)*3がスタートしたのです。そして2005年(高木会長最後の年)には、実用化研究を掲げる国内随一の画像技術研究発表集会として、900人前後の参加者を抱えるまでに成長しております。卓越した包容力と進取の気質に富んだ高木先生の人格に惹かれ、多くの研究者が世代を超えて高木先生の周りに集まって来たのです。濃い時期、薄い時期はありましたが、この時点で高木先生と私のお付き合いは私の研究者人生の半分を越えておりました。その間、綺麗事ばかりではありませんでしたが、一度として不快なものを感じたことはありませんでした。しかし、先生は、‘単なるお人好し’ではありませんでした。「エッ、先生、それって本気ですか?」と確認するような場面が何度かあったことを思い出します。思いつかれたことは躊躇無く断行され、不要と考えられれば、名のある人でもスパッと切ってしまうのです。生涯、権威に屈するとこなく、人の実力を正しく見極め、人を適材適所に配する見識を持ち続けられた方であったと思っております。
片や、高木先生は‘可愛い人’ でもありました。
私が若い頃は、もっぱら高木先生行きつけのお店に連れて行って頂きましたが、先生晩年の10年ほどは、私の店に付いて来て下さることが多かったかと思います。 先生のお気に入りは、私がそれまで30年来行きつけにしてきた芝浦の料亭でした。
高木先生のお歌をご存じなかった方が多いようですが、実は先生、歌もお嫌いではなかったようです。高木先生60歳の頃だったかと思います。お酒がかなり回った頃、「先生、歌でも歌いましょうか?」と切り出してみました。「いャー、僕は・・・中島先生歌ってよ!」。でも、私が「先生、これならご存知でしょ!」と ‘憧れのハワイ航路’ を歌い始めると、先生、小声で口ずさんでおられるではありませんか。「じャー、2番は先生!」と言ってマイクをお渡しすると、見事ボリュームのある大声で歌い上げられたのです。 その後は、‘お富さん’、‘琵琶湖周遊の歌’ など、古い歌ばかりでしたが7〜8曲を続けざまに歌われました。 「先生、楽しかったですね。また、やりましょう!」、「そうだねェー」、そんなお別れの会話が懐かしく思い出されます。
2006年6月に行われた、画像センシング技術研究会有志による ‘高木幹雄先生を偲ぶ会’ の席で流れた、懐かしい高木先生の屈託ない歌声は、その何年か前の画像センシング技術研究会親睦旅行の晩、ホテル近くのスナックにおける先生の熱唱をこっそり録音(確か、録音したのは富士通研究所の佐々木繁氏だったと思います)したもの ‘憧れのハワイ航路’ でした。暖かい雰囲気が会場を流れ、参加者の皆様には、きっと目頭が熱くなるのを禁じ得なかったものと思います。 読者の中にはキット、「そう言えばそんなこともあったな〜」とその時の光景を懐かしく想い出される方もおられるのではないでしょうか?
高木先生。いろいろと暴露してしまいました。
天国で、苦笑されているものと思います・・・お許し下さい。
3. SSIIのスタート
さて ‘画像センシングシンポジウム’ の方に話を戻しましょう。本‘画像センシングシンポジウム’(SSII)は本年6月をもってめでたく30周年を迎えることになります。高木幹雄先生とは「200人集められなくなったら止めよう」と話し合って1995年6月にスタートした学術集会でした。‘SSII懇親会’ の場などでは、何度か断片的にお話ししてきたことではありますが、私も今年6月末には81歳を迎えることになります。このタイミングでSSII創立の経緯など、簡単にまとめておきたいと思いました。
高木先生との初対面から15年ほど後のことです。「中島先生も、うちでも発表してくれませんか?」とのお誘いを受け、1989年からは同先生がオーガナイズされる ‘産業における画像センシング技術シンポジウム’(非破壊検査協会主催) で毎年数件の発表をするようになっていました。同先生のお人柄から滲み出る ‘やんわりとした吸引力’ には無意識の内に引き込まれるものがあったのです。
前述の通り、1994年に開催された同シンポジウムにおけるいつもの立ち話で、高木先生から同シンポジウムの継続を「打ち切ろうと思っている」と打ち明けられた私は、「それはちょっと残念」な気がすること、 ‘画像センシング’ という名称には、これから ‘繁盛する響’ が感じられること、また「従来は ‘画像センシング’ というと、‘リモセン’*4のイメージが強かったが、今後対象の枠を拡げていくことによって、多くの画像処理関係の研究を取り込んでいけるように思う」ことなど、意見を述べさせて頂きました。シンポジウムの終了後高木先生のお誘いに応じて軽く一杯呑みながら、私が勝手に今後の可能性などを語ると、先生は「じゃー中島さん、中島さんに任せるから、思うようにやってみてくれませんか? 責任は、私が取りますから・・・」と言われたのです。
かれこれ一週間後に六本木の先生のお部屋を訪れた私は、(1)これまで日本非破壊検査協会の主催で行われてきた ‘産業における画像センシング技術シンポジウム’ を解散し、新設の独立学術組織によって ‘新たな画像センシングシンポジウム’ を開催すること、(2)これまでの多くの学術集会がそうであったような ‘発表者のための発表会’ ではなく ‘聴衆本位’ の学術集会としたいこと、(3)高い参加費を払っても参加したくなるようなプログラム構成を真剣に考えねばならないこと、(4)シンポジウムの開催は当面年一回(6月)とすること、(5)学術団体としての ‘会費’ は徴収せず、シンポジウム参加費の上がりだけで会議運営をしていくこと*5、(6)会長は、毎回新たに実行力とアイデア溢れる ‘実行委員長’ と ‘プログラム委員長’ を指名し、各回シンポジウムの企画運営にあたってもらうようにすること、(7)開催場所として、もう少し人に集まってもらえそうな ‘魅力ある会場’ を探すこと、(8)これまでは地味に仕上げられていたプロシーディングス(講演予稿集)を良質の紙を用いたカラー印刷の ‘気の利いた冊子’ とすること(すなわち支払う高い参加費にみあったもとのするということ)等、提案させて頂きました。
高木先生の方からは、まず(1)良い発表と多くの参加者の募集に協力してもらうため、全国の各主要大学および各主要企業の研究者を代表する方々約30名によって構成される ‘幹事会’ を結成したいこと、(2)事務局を松下要氏の精機通信社*6にお願いしたいこと等、ご提案がありました。高木先生は多分、松下氏にお願いすることによって当面の財政面での不安を解消する狙いがあったのではないかと思います。間も無く、高木・松下・中島の3者会談が催され、新生学術集会たる ‘第一回画像センシングシンポジウム’ の11ヶ月後の開催に向け、急ぎスタートすることとなりました。1994年7月のことです。
私は、会場として ‘東京国際フォーラム’ を考えていたのですが、松下氏の強いご要望によって、 ‘横浜みなとみらいのパシフィコ’ で開催することとなりました。既に松下氏の脳裏には、 ‘画像センシング機器展’ との共催構想が芽生えていたものと考えられます。 私も翌年11月開催予定の ‘日本超音波医学会講演会’ の ‘大会長’ を拝命しておりましたので、事前に小規模な学術集会を開催して試しておくという意味で、ちょうど良いリハーサルになるように感じた次第です。何しろ ‘日本超音波医学会講演会’ の方は、横浜みなとみらいの会議場施設全部を貸切使用する参加者数約7,000人の大学術集会で、大会長に全権が与えられ、学会組織からはわずか100万円の ‘御印’ が渡されるだけで、以外の支援金は鐚(ビタ)一文なく、参加費も含めて総額億円オーダーとなる開催費全額を大会長の責任で賄わねばならないのです。翌年第一回目開催予定の画像センシングシンポジウムの規模などとは、比較するまでもありませんでしたが、小規模ながらも実際に使用して問題点などを掴んでおくというのは、責任者の立場からすると好都合でした。
・・・ということで、11ヶ月後に向け、私は鋭意新学術集会 ‘第一回画像センシングシンポジウム’ の開催準備を開始したのです。時々高木先生に進捗状況を報告し、必要に応じて許可/同意を求めはしたものの、基本的には私中島の独断で進められたと言っても過言ではありません。高木先生は、私の猛進をじっと見守っておられました。私の秘書の大勢美智子さん(画家:第1回SSIIのプロシーディングス表紙のデザイナー、前高等学校の美術教師)と野尻隆子さん(前高等学校の国語教師)、当時慶應理工学部助手の斉藤英雄君(現、慶應義塾大学教授)と中澤和夫君(現、慶應義塾大学准教授)、教え子の秋山いわき君(当時湘南工科大学教授、現在同志社大学教授)と大矢晃久君(当時筑波大学助手、現在同大学教授)、それに大学院生の寺田賢治君(現、徳島大教授)、同大橋剛介君(現、静岡大教授)が大いに活躍してくれました。全く新しい組織のスタートにも関わらず、多くの方のご意見を取り入れている時間など全くありませんでしたが、元来‘独断専行型’の私にとっては好都合(?)でもあった訳です。輿水大和先生(当時中京大学教授、現在同大学名誉教授)には、プログラム委員長をお願いしていたにも関わらず、実際には飾り物にしてしまいました。鷹揚な輿水先生のこと、お目をパチクリさせながら、快く受け入れて頂きましたこと、感謝以外の何物でもありません。
新しい学術集会の名称は、数案を作って中島既知の米国人の意見を聞くなど、いろいろと検討の末、高木先生の許可を得て‘SII’(Sensing via Imaging Informationの略)とすることにしましたが、後に他組織とのバッティングが指摘され、2000年度からは‘SSII’(Symposium on Image Informationの略)に改称されております。
果たして ‘第1回画像センシングシンポジウム’ の開催結果は大成功で、当初「それ以上集められなかったら止める」と言っていた200名を遥かに超す参加者を得ることができました。高木先生は、にっこりと「来年もやることになるのかな?」と惚けておられたのが思い出されます。高木先生59歳、私51歳の時のことです。
4. リニューアル
その後私は、正に働き盛りの齢となり、本務(慶應義塾大学)の企画会議議長として組織改革(学部学科組織の再編成)と新組織(慶應義塾先端研究センター:KLL)*7 の設立に奔走することとなります。協力者は少なくありませんでしたが、これまた独断専行の色彩が強いものでありました。
SSIIの方は高木先生に任せっ放しとなり、8年ほどが経過したある日のことです。国の他の組織の委員会の席で久しぶりに高木先生とお目にかかった折、先生から「中島さん、もう一度SSIIの実行委員長を引き受けてくれませんか? 中島さんは以前、『組織は10年も放っておくと古びてくる・・・綻びが生じる前の改善が重要で、綻びが顕在化してからの繕いでは手遅れになる!』と言っていましたよね。SSIIも中島さんが最初にスタートさせてからもう直ぐ10年、そろそろ修繕でなく改善が必要なように感じ始めましたので、ここでもう一度中島さんにご登場願おうかと・・・」と、言われたのです。
私は、「ありがとうございます。でも、現在は本務が忙しく、直ぐに快諾とは参りません。1年待って頂けませんでしょうか?そうすれば、本務の方を整理できると思います。」と申し上げましたところ、高木先生は、「分かった。では、次回の実行委員長は私が自ら務めておきます。中島さんには、その次の年にSSIIの大改修をお願いすることにしましょう。」と言われたのです。会長が、実行委員長をやるなんて、異例の対応ではないでしょうか・・・正直驚きましたし、「これは引けないな!」と覚悟を決めた次第です。
斯くして2005年度、 ‘リニューアル’ なるキャッチフレーズを掲げ10年ぶりに2度目のSSII実行委員長をお引き受けするとこととなりました。高木先生からは、「思う存分に中島イズムを発揮し、新しい時代のSSIIの礎を築いて頂きたい」なるお励ましの言葉を得、スタート時点のように、「200人集められなかったら止めよう」などというケチな話ではなく、10年〜20年先を見据えた新しい時代の学術集会の在り方を探る大改革を行う決心を固めました。今回もまた時間がありません。多くの関係者を動員することなく、また私の独断で、SSIIの改革案を練ったというのが正直なところです。
時間的猶予の少ない突貫作業で、中心的に働いてくれたのは、高木先生からご推薦賜った青木義満先生(当時、芝浦工大助教授、現在慶應義塾大学教授)、それに日産の下村倫子さん、そして私の秘書の中村香織さん(現在は青木研究室秘書)でありました。
ここで私は「SSII運営の大方針」として、
1. 実用化を目指す研究発表の場
① 社会に役立つ研究の採択
2. 聞き手を主客とした研究発表の場
① 聴衆の満足度を重視したシンポジウム運営
② プレゼンテーションの質の確保
③ ‘面白さ’ と ‘わかり易さ’ の重視
④ 十分な議論のできる場の提供
3. 独創性の尊重
① 型式に捕われない、創意溢れる研究の採択
4. 社会への直接的貢献
① 産学出会いの場の提供
② 技術移転のサポート
なる4大項目を掲げ、SSIIの効率的かつ機能的な運営を図るためのシステマティックな組織構成を再構築することに致しました。詳細につきましては、下記 ‘SSIIオペレーションマニュアル’ に記載の通りです。
SSII2005は、2005年6月成功裡に終えることが出来たのですが、高木先生から、「今回のSSII開催に関わる中島さんの計画には、素晴らしいものがあると思います。ただ、かなり複雑な内容になっているので、この後代々の実行委員長がこのやり方を引き継いで行けるようにするため、何らかのメモを残しておいてくれませんか」と依頼されました。勿論私は快くお引き受けすることにいたしました。 ‘SSIIオペレーションマニュアル’ *8という形で残すこととし、下書き原稿を持って六本木の高木先生を訪問したのは、同年10月初めのことです。高木先生に添削していただき、印刷物として完成させる予定でした。高木先生は、お好きな細手の葉巻タバコを燻らせながら、1時間ほど私の原稿に目を通され、二、三の修正点を指摘された後「これで大体良いと思いますよ!」との感想を漏らされたのですが、私には‘何か気合いが入らない’といった雰囲気に見てとれたのです。ご体調でも悪いのかと、「今日はお疲れのようですので、頂戴したご意見を踏まえて修正し、また近々出直して参ります。」と申し上げると、「実は来週から検査入院することになってるんでね〜・・・で、今は次回の日程が決められないんですよ〜」と仰ったのです。
次に高木先生とお目にかかったのは、五反田にあるNTT東日本関東病院の病室においてでした。奥様から、「高木先生ご危篤」の報を受け、青木義満先生を誘って駆けつけた時です。高木先生は、相当に苦しんでおられ、お話をするどころではありませんでした。お見舞いを早々に打ち切り、帰宅することになったのですが、帰宅するや否や、奥様からのお電話で我々が退出して間も無く高木先生が身罷られたことを知りました。お通夜は、数年前にご他界された父君と同じく、品川の東禅寺で執り行われました。私の連絡で山梨県須玉に隠棲しておられた松下要氏も駆けつけられたのですが、私が同氏の背中に携帯カイロを何枚も貼って差し上げねばならないほどの寒い夕刻でした。高木先生の奥様は、「父の葬儀の際、真逆自分の葬儀が数年後にこのお寺で行われることになろうとは、思ってもみなかったでしょうね」と仰っておられたことを思い出します。
5. ポストタカギ
さて大変なのは、不慮にして突然大黒柱を失うことになってしまったSSIIです。私としても、SSIIをリニューアルしたまで良かったのですが、ずっと後ろ盾になって下さっていた高木先生を失い、どうしたものかと途方に暮れました。しかも、次年度のSSII2006開催の予定は、着々と迫って来ていたのです。幸にして、輿水大和先生、金子俊一先生(元、北大教授)を初め多くの方々の励ましとサポートを得、私が二代目の会長を引き受けることとなり、高木先生のおられないSSIIの運営を再検討することとなりました。私が会長として最初に行ったことは、今後の ‘画像センシング技術研究会’ の各委員会及び部会の役割の見直し及び会長をはじめとする各役員の選出方法の見直しでありました。上記 ‘SSIIオペレーションマニュアル’ に加筆修正するかたちで、 ‘ポストタカギ’ 時代のSSII運営要領を定めたのです。脚注8に上げたのは、実はこの時点での ‘SSIIオペレーションマニュアル’ となります。2006年4月1日のことで、会長不在の時期でした。
‘オペレーションマニュアル’ には、新時代のSSII運営法が箇条書きながら詳細に定められております。まず、学会運営組織(以下、「学会組織」と略す)としての ‘画像センシング技術研究会’ とシンポジウム実施組織としての ‘画像センシングシンポジウム実行委員会’ (以下「シンポジウム実行委員会」と略す)の区分けが明確になっております。学会組織には、最大30人の委員によって構成される ‘組織委員会’ (従来の幹事会に相当)が有って、二名の監事がおかれます。前者は、世の中で言う ‘評議員会’ に相当し、後者は ‘監査役’ に相当するものです。一方、会長直属の組織として、世の中で言う ‘取締役会’ に相当する ‘ステアリング・コミッティー’ (5〜10名の委員によって構成)がおかれ、若干名の幹事(専務、常務取締役に相当)が指名されます。
ここで、SSIIの設立と運営における高木先生のご功績を顕彰するため、是非作っておかねばならないと考えたのが ‘高木賞’ でした。若干名の委員によって構成される ‘髙木賞選考委員会’ を学会組織内におくこととし、委員長は会長指名とすることに致しました。また ‘学会事務局’ は、引き続き(株)アドコムメディアに委嘱することにしました。
一方シンポジウム実施組織には ‘シンポジウム実行委員会’ (実行委員長1名)と ‘表彰小委員会’ (委員長1名、委員数若干名)が置かれ、実行委員長下には、 ‘運営委員会’ (下に、財務部会、庶務・会場部会、広報部会の3部会)と ‘プログラム委員会’ (下に、オーガナイズド・セッション部会、チュートリアル・セッション部会、インタラクティブ・セッション部会、特別展示部会、出版部会の5部会)、それに ‘表彰小委員会’ 及び ‘シンポジウム事務局’ (㈱アドコムメディア)が置かれています。詳細は、脚注9の「画像センシング技術研究会の役員人事について」*9でご確認いただけます。
ところで、この時期にはそれなりの規模にまで成長していた画像センシング技術研究会の名称に ‘学会名’ を冠するべきかどうかの議論も行われました。「研究会では、いかにも弱小な学術集会に見えるから」というのが、その理由です。しかし、2回ほど行われた議論の結果、結論は「研究会」のままで行くこととし、「画像センシング学会」とは名乗らないということになりました。‘某製作所’ のように我国を代表するほどの大企業でありながら、町工場のように「製作所」を名乗り続けているところもあり、また ‘某塾大学’ のように「塾」を外さない有名大学もある・・・却ってその方が「粋でないか」と言うのが理由でした。
斯して、ポストタカギのSSIIが覚束ないながらも歩を進めることになったのは、2006年初夏のことです。私は、その後約1年間と要して新しいかたちの学会組織としてスタートした ‘画像センシング技術研究会’ とその学会組織により運営される ‘画像センシング・シンポジウム’(SSII)の基盤をとなる「大綱」を作り上げた後、旧友の輿水大和氏(中京大学教授)に画像センシング技術研究会会長の座をバトンタッチすることとなりました。2010年9月のことです。その後8年間という長期政権において、SSIIを盤石なる組織に成長させた同氏も2017年には、新進気鋭の青木義満氏(慶應義塾大学教授)に会長の座を譲り、本年9月からは藤吉弘亘氏(中部大学教授)の新政権が発足することになっております。
6. おわりに
年寄りの私が特に申し上げるべきことなど何も無いはずなのですが、敢えてひとつこれからSSIIの将来を担ってくださる方に申しあげるとすれば、以下のようなことになるかと思います。すなわち、「常に先を読んでの改革を行ない続けていかなければならない」ということです。高木先生の素晴らしいところは、「そろそろこの辺りで何か手を打つ必要がありそうだ」と、タイミングよく気づかれることだったと思っております。問題点が露呈し、誰もが気付くずっと以前に手を打つということは、必ずしも多く人の賛同が得られるものではありません。それを行うには、「相当な勇気と先見の明を要する」ということを忘れないでおいて頂きたいと思います。
以上
脚注
[*1] 電総研:当時は、通産省工業技術院に所属する我国唯一の国立電気・電子技術研究機関でありました。その後、行政改革により、2001年からは新設の独立行政法人産業技術総合研究所に組み込まれ、田無から筑波学園都市に移転しました。
[*2] 尾上守夫(おのえもりお):1926年生。東京大学生産技術研究所教授・所長を経て, 1986年より(株)リコー中央研究所長、研究開発本部長、副社長。1998年退職。1986年 日本非破壊検査協会会長、1992年 画像電子学会会長。
[*3] この「SII」なる英文表記名は、後に他組織とのバッティングが指摘され、2000年度からは「SSII」(Symposium on Image Informationの略)と改称されております。
[*4] リモセン:リモートセンシング(遠隔探査)の略称。センサと対象物とが遠く離れた観測方法を示す言葉。一般的には地球の状態を知るために、航空機や衛星にセンサを搭載して観測を行う方法を指します。
[*5] 学会費を無料とする意義 : そうすることによって、開催を担当する委員たちは、より良いプログラム構成(多くの人々が、高い参加費を払っても参加したくなるような発表)を考えねばならなくなります。さもないと、学会としての財政が破綻してしまうからです。
[*6] 松下要(まつしたもとむ):当初工業技術院機械試験所(現在は筑波産業技術総合研究所の一施設となっている)に奉職。1964年、精機通信社を設立し、精機学会(現精密工学会)の編集・広告業務を開始。レーザ応用技術研究会の事務局などにも携わる。1978年、第1回国際画像計測機器展(現、国際画像機器展)を開催。1980年、月刊誌O plus E発刊。1995年、国際画像機器展を第1回画像センシングシンポジウムに併催。2007年、株式会社精機通信社をアドコム・メディア株式会社(社長:故油井識親氏)に改称。
[*7] 慶應義塾先端科学技術センター(KLL:Leading-edge Laboratory of Keio University):キャンパス内外に独自の研究施設を有し、総額約200億円の外部導入資金をもって運営される2000年スタートの産学連携研究施設(研究プロジェクト数100超)。命名者、準備委員長および初代所長)は中島真人。

[*8] SSIIオペレーションマニュアル:各ページをスライドショー動画でご覧いただけるようにしてあります。ただし、各ページ4秒のスピードで捲られえてしまいますので、詳細をご確認されたい場合は、ページ毎に動画をストップさせて頂く必要があります。下のリンク、または右のQRコードをスキャンしてお入り下さい。

[*9] SSIIの役員人事について:こちらも、各ページをスライドショー動画でご覧いただけるようにしてあります。同じく、各ページ4秒のスピードで捲られえてしまいますので、詳細をご確認されたい場合は、ページ毎に動画をストップさせて頂く必要があります。下のリンク、または右のQRコードをスキャンしてお入り下さい。
