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[02社-口-03]1970年代の性教育論とウーマン・リブ運動純潔教育から性教育へ
*XIAOYU LIU1 (1. Meiji Univ.)
戦後日本の公教育における性教育は、処女と童貞を守らせようとする「純潔教育」として開始された。その純潔教育は、処女と童貞の価値に差をつける二重基準(ダブルスタンダード)であったと批判されている。しかし、「言説」と「実態」を明確に区分するならば、純潔教育の主要著書に、処女と童貞の二重基準を明記する言説はみられず、逆に、二重基準を戒めるような言説さえ認められるのである。確かに、純潔教育には実態としての二重基準の読み込みを可能にする言説も存在していた。「男の性欲は能動的」であり「女の性欲は受動的」である、「男は労働する身体」であり、「女は産み育てる身体」である、といった言説である。純潔教育においては、それらの言説に「科学」としての力が付与され、男女平等とは「男女の役割を尊重し、それぞれの任務を遂行すること」とみなされた。
1970年代になると、「純潔を守らせる」という純潔教育の言説と、「愛があれば純潔を失ってもよい」とする市井の言説との落差が広く認識されるようになり、文部省も純潔教育から性教育へと舵を切り直すことになる。本報告では、この純潔教育から性教育への転換に焦点をあて、その背後にあった新しい言説の誕生について考察する。
純潔教育のなかでも、処女と童貞の二重基準を批判的に捉えていた数少ない論客に、文部省視学官の山室民子とキリスト教矯風会の久布白落美があげられる。彼女たちはいずれもエリート層の家庭に育ち、アメリカやキリスト教という外部の視点から日本人女性の法的権利の拡大を重視していた。これに対して、1970年代初頭に市井の論客として、「純潔」を象徴権力の次元で批判したのが田中美津であった。山室や久布白とは異なる出自をもつ田中は、「語られえるもの」でありながら「語られなかったもの」の何を新しく語ることで、「純潔」を再定義してみせたのか。本報告において明らかにしたい。
1970年代になると、「純潔を守らせる」という純潔教育の言説と、「愛があれば純潔を失ってもよい」とする市井の言説との落差が広く認識されるようになり、文部省も純潔教育から性教育へと舵を切り直すことになる。本報告では、この純潔教育から性教育への転換に焦点をあて、その背後にあった新しい言説の誕生について考察する。
純潔教育のなかでも、処女と童貞の二重基準を批判的に捉えていた数少ない論客に、文部省視学官の山室民子とキリスト教矯風会の久布白落美があげられる。彼女たちはいずれもエリート層の家庭に育ち、アメリカやキリスト教という外部の視点から日本人女性の法的権利の拡大を重視していた。これに対して、1970年代初頭に市井の論客として、「純潔」を象徴権力の次元で批判したのが田中美津であった。山室や久布白とは異なる出自をもつ田中は、「語られえるもの」でありながら「語られなかったもの」の何を新しく語ることで、「純潔」を再定義してみせたのか。本報告において明らかにしたい。
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