Presentation Information
[T14-O-14]Development of the Makabe Heritage Stone Quarry District in Ibaraki, Japan
*Mutsuko INUI1 (1. Kokushikan University)
Keywords:
building stone,Makabe granite,granite,quarry,stone industry
IUGS(国際地質科学連合)が進めているヘリテージストーン(天然石材遺産)事業は、国際的価値が高く人類と古い関わりがある天然石を認定するものである。2024年7月には「筑波山塊の花こう岩」が日本から初めて認定されたが、その中でも建築石材としてよく知られているひとつが真壁石である。真壁石は現在の茨城県桜川市にあたる加波山西麓で明治20年代頃から採掘されてきたものであり、迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所)を代表とする首都圏の建造物に利用された。日本の風景の近代化に大きく貢献した石材のひとつであるにもかかわらず、この地でどのように採石産業が成立したのか等が十分に記録されていない。本研究は文献調査、聞き取り調査、旧版地形図等および現地と岩石の調査を通じて真壁石産地における近代採石業の全体像をできるだけ再構築しようとしたものである。
加波山花崗岩は白雲母含有黒雲母花崗岩を主体とし、岩体内で粒径や組織が比較的大きく変化するため、石材としては細粒部分を「小目(こめ)」、より粗粒なものを「中目(ちゅうめ)」として区別している。宮崎ほか(1996)は加波山花崗岩体を4つに区分しており、そのうち「細粒白雲母含有黒雲母花崗岩」と記載されている部分が石材としての小目、「中粒黒雲母花崗岩」が中目に当たると考えられる。産業技術総合研究所地質調査総合センター所蔵の真壁花崗岩13試料を用いて観察したところ、小目に比べて中目は全ての主な鉱物の粒径が大きくなっていたが、特に石英・長石類の粒径が5 mmを超えるものが多くなる点が目立ち、黒雲母の最大粒径は長径約1 mmを超える程度で大きな差はなかった。この他に、加波山花崗岩の中には極細粒部分や黒雲母の黒色斑点が目立つ岩相、優白質でザクロ石を含む岩相もあり、過去には採掘されていた可能性があるが、建築石材として利用された記録は現在のところ確認されていない。
農商務省地質局『水戸図幅』(1888)、巨智部(1889)等によると加波山山麓では明治20年(1887)代の始め頃には多数の採石場が開発されていた。この始まりについての文献記録は少ないが、短期間に開発され当初から東京への出荷が前提とされていた様子から、安定した需要を見込んでの組織的取り組みであったことが推察される。当時の輸送体系については川俣(2020)等に詳しく、初期は水戸鉄道(現在の水戸線)岩瀬駅から鬼怒川まで陸送した後に水運によって東京方面へ出荷でき、大正7年(1918)に筑波鉄道が開通すると鉄道輸送へ移行したことが調べられている。採石場から岩瀬駅まで搬出していた時代にはその経路に軽便軌道が敷設されていた記録があるものの、その詳細な経路は地形図には記載されておらず、現存する道路跡や微地形からの推定にとどまる。
初期に実際に採石していた地点の記録としては、明治42年発行の5万分の1地形図「真壁」に採石場マークが記載されている他、大正2年発行の清水(1913)に採石場の大まかなマップがある。明治42年(1909)竣工の迎賓館赤坂離宮の建造に当たって真壁石は主に雨引村および樺穂村から調達されたことが分かっている(仁科ほか,2020)。これらから、当時の雨引村(採石場は「滝庭」という地名で呼ばれていたと思われる)および樺穂村(同じく「若林」)に対応する採石場跡を推定できた。この二箇所は小目の分布域内にあり、細粒で均質な岩相が選択されていたことが示唆される。現地調査を行ったところ、これらの採石場跡方面へ向かう林道が現在もある程度まで追跡可能で、周辺には昭和中期の石碑も確認された。初期に開発された採石場の一部が、その後も事業者を変えながら昭和中期頃まで操業していた可能性が高い。続く時代についても旧版地形図で比較したところ、昭和中期に採石場数が急増し採石域が南側の中目の分布域に拡大していく様子が認められた。真壁石産地のなりたちに関するこれらの知見は近代日本の都市の姿に貢献した石材産業史の解明につながることが期待される。
〈謝辞〉長時間の聞き取り調査に対応していただいた真壁石材協同組合の関係者、真壁石試料の多くを提供してくださった産業技術総合研究所地質調査総合センターのご協力に感謝します。本研究は東京地学協会の調査・研究助成を受けて実施しました。
〈参考文献〉
鈴木敏(1888)水戸圖幅地質説明書.農商務省地質局.
宮崎一博ほか(1996)真壁地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所
巨智部忠承(1889)地学雑誌,1, 510-516.
清水省吾(1913)地質調査所報告,37, 1-60.
仁科薫ほか(2020)日本建築学会大会学術講演梗概集(建築歴史・意匠),263-264.(講演番号9132)
川俣正英(2020)地方史研究,70(4), 48-51.
加波山花崗岩は白雲母含有黒雲母花崗岩を主体とし、岩体内で粒径や組織が比較的大きく変化するため、石材としては細粒部分を「小目(こめ)」、より粗粒なものを「中目(ちゅうめ)」として区別している。宮崎ほか(1996)は加波山花崗岩体を4つに区分しており、そのうち「細粒白雲母含有黒雲母花崗岩」と記載されている部分が石材としての小目、「中粒黒雲母花崗岩」が中目に当たると考えられる。産業技術総合研究所地質調査総合センター所蔵の真壁花崗岩13試料を用いて観察したところ、小目に比べて中目は全ての主な鉱物の粒径が大きくなっていたが、特に石英・長石類の粒径が5 mmを超えるものが多くなる点が目立ち、黒雲母の最大粒径は長径約1 mmを超える程度で大きな差はなかった。この他に、加波山花崗岩の中には極細粒部分や黒雲母の黒色斑点が目立つ岩相、優白質でザクロ石を含む岩相もあり、過去には採掘されていた可能性があるが、建築石材として利用された記録は現在のところ確認されていない。
農商務省地質局『水戸図幅』(1888)、巨智部(1889)等によると加波山山麓では明治20年(1887)代の始め頃には多数の採石場が開発されていた。この始まりについての文献記録は少ないが、短期間に開発され当初から東京への出荷が前提とされていた様子から、安定した需要を見込んでの組織的取り組みであったことが推察される。当時の輸送体系については川俣(2020)等に詳しく、初期は水戸鉄道(現在の水戸線)岩瀬駅から鬼怒川まで陸送した後に水運によって東京方面へ出荷でき、大正7年(1918)に筑波鉄道が開通すると鉄道輸送へ移行したことが調べられている。採石場から岩瀬駅まで搬出していた時代にはその経路に軽便軌道が敷設されていた記録があるものの、その詳細な経路は地形図には記載されておらず、現存する道路跡や微地形からの推定にとどまる。
初期に実際に採石していた地点の記録としては、明治42年発行の5万分の1地形図「真壁」に採石場マークが記載されている他、大正2年発行の清水(1913)に採石場の大まかなマップがある。明治42年(1909)竣工の迎賓館赤坂離宮の建造に当たって真壁石は主に雨引村および樺穂村から調達されたことが分かっている(仁科ほか,2020)。これらから、当時の雨引村(採石場は「滝庭」という地名で呼ばれていたと思われる)および樺穂村(同じく「若林」)に対応する採石場跡を推定できた。この二箇所は小目の分布域内にあり、細粒で均質な岩相が選択されていたことが示唆される。現地調査を行ったところ、これらの採石場跡方面へ向かう林道が現在もある程度まで追跡可能で、周辺には昭和中期の石碑も確認された。初期に開発された採石場の一部が、その後も事業者を変えながら昭和中期頃まで操業していた可能性が高い。続く時代についても旧版地形図で比較したところ、昭和中期に採石場数が急増し採石域が南側の中目の分布域に拡大していく様子が認められた。真壁石産地のなりたちに関するこれらの知見は近代日本の都市の姿に貢献した石材産業史の解明につながることが期待される。
〈謝辞〉長時間の聞き取り調査に対応していただいた真壁石材協同組合の関係者、真壁石試料の多くを提供してくださった産業技術総合研究所地質調査総合センターのご協力に感謝します。本研究は東京地学協会の調査・研究助成を受けて実施しました。
〈参考文献〉
鈴木敏(1888)水戸圖幅地質説明書.農商務省地質局.
宮崎一博ほか(1996)真壁地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所
巨智部忠承(1889)地学雑誌,1, 510-516.
清水省吾(1913)地質調査所報告,37, 1-60.
仁科薫ほか(2020)日本建築学会大会学術講演梗概集(建築歴史・意匠),263-264.(講演番号9132)
川俣正英(2020)地方史研究,70(4), 48-51.
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