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[00哲-口-02]個人のなかで「教わる」「学ぶ」「教える」はいかに連動するのか構成的な実践研究の基礎として

*Jiyun Bae1 (1. Sophia University)
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「教わる」、「学ぶ」、「教える」ことは、一般的に役割が明確に区別された行為とみなされる。つまり、上級者・教師・コーチが「教え」、初級者・学生・選手が「教わり」、「学ぶ」といった形として表象的に現れる。しかしながら、個人のなかの主観的な経験として「教わる」、「学ぶ」、「教える」ことは、必ずしも各々が個別的に離れた行為ではなく相互的に連動して発展する連続性を持つ経験群であり、ジョン・デューイの「美的経験」としても理解できる。私たちが何かを学ぶ際に、三つの行為が連動していることを経験的には知っていても、それらを離れた経験のように扱い、「教わる」、「学ぶ」ことは学習者の学習法として、「教える」ことは教授者の教授法といった理論として個別的に扱われることは顕著である。構成主義の後、教育学における学習論は大きな転機を迎え「教え」中心から「学び」中心への転換が図られてきたが、教育という関係性のダイナミズムのなかに置かれた個人のなかの、「教わる」、「学ぶ」、「教える」ことが連動する経験は、教える側、教わる側ともに、その複雑性ゆえに依然として明らかにされずに今日まできている。それは、その経験が一人称の主体からしかアクセスできない領域であり、曖昧さを理由に科学的研究から避けられてきたからである。このような科学理論と個人的な経験の乖離に強い問題意識をもって出発した理論に金子明友の「身体知」や「わざ」の観点からの運動学がある。本発表では、「教わる」、「学ぶ」、「教える」行為が、個人のなかでどのように連動しているかに答える実践的なケーススタディの基礎的研究として、 実践者、指導者、研究者として「教わる」「学ぶ」「教える」経験が解け込んでいる金子の運動学研究に注目する。また、デューイの美的経験論を用い、三者の連続性と相互作用をより詳しく見ていくための実践的なケーススタディの基礎を固める。

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