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[00哲-口-07]〈競技者一般〉の存在に関する研究

*Kiyoshi Kono1 (1. Shigakkan University)
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スポーツにおいては、あるプレイが賞賛される一方、別のプレイは批判されることがある。例えば、逆転不可能と考えられる場面においても、最後まであきらめることなく、〈セーフ〉を目指して一塁に全力疾走する野球のプレーヤーを、われわれは賞賛する。これに対し、全力疾走しないプレーヤーをみるならば、ある種の怒りを感じるであろう。それと同時に、「あいつは競技者ではない」という価値的判断がなされることがある。人々がこのような判断を行うのはなぜなのか。その理由の一つは、われわれが〈競技者一般〉としてのプレーヤーとして自己形成を遂げているためであると考えられる。そこで本発表においては、この〈競技者一般〉の存在性格および〈競技者一般〉へと自己形成を遂げる機序について、廣松渉の思想を援用することにより、明らかにしていくことを目的とする。
このため、まずは、スポーツにおける〈意味的所識〉について考察する。なぜならば、〈意味的所識〉の契機と〈競技者一般〉の契機は相即的な関係にあるからである。スポーツのプレーヤーは、〈所与〉としての感性的なボールの動きを、それ以外・以上の〈意味的所識〉において覚知すると同時に、それに応じたプレイをおこなっている。そして、この「所与−所識」の構制が対妥当する主体が、まさに「競技者一般としてのプレーヤー」である。この〈競技者一般〉とは、個々の具体的プレーヤーがレアールな存在であるのに対し、イデアールな存在性格を有している。個々のプレーヤーはこの〈競技者一般〉を僭称するかたちでプレイを行っている。そして、このようなプレーヤーへと成長を遂げる過程において、「社会的交通」および「サンクション」が重要な機能を担っている。 
以上の論考により、スポーツのプレイに関する価値的判断は、〈競技者一般〉としての具体的なプレーヤーが行う共同主観的(共同主体的)判断であることを示していく。

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