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[02社-口-05]明治期における読売新聞社の動向から見た野球害毒論争に関する一考察東京朝日新聞社、東京日日新聞社との関係に着目して

*Kazuya Yagi1, Tetsuya Matsuo1 (1. Rikkyo Univ.)
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明治44年、東京朝日新聞(以下、「東朝」とする)はおよそ1ヶ月(22回)にわたって、「野球と其害毒」と題した連載記事を掲載し、野球を痛烈に批判した。それに対し、ライバル紙であった東京日日新聞(以下、「東日」とする)をはじめとするいくつかの新聞社が東朝に対抗する形で野球擁護論を展開するという、いわゆる「野球害毒論争」が巻き起こった。菊(1993)は、この論争は「学生への教育的弊害を…指摘したものであったが、かえってこの指摘が野球を愛し、発展させようとする人々の結束を促し…その信条の統合化、勢力化を形成せしめた…。…この期において、武士道的精神を中核とする勝利至上主義、鍛錬主義は、野球の担い手たちにとって次第にその内容を豊かにし、確固とした信念から信条へ、そしてイデオロギーへと発展していく契機となっていく」(菊,1993,p.51)と指摘する。本論争は、大阪資本をベースに発展してきた朝日新聞社と毎日新聞社の関係における、東京を拠点とした経営戦略の一つであったという見解も散見される(横田,1991・綿貫,2001など)。しかし、本論争には「東朝」「東日」のみならず東京資本の生え抜き新聞社であった読売新聞社も大々的に参戦し野球擁護論を展開、さらには独自の動きとして論争期間中に、「野球大演説会」なるものを主催している。「東朝」「東日」の二社関係にとどまらず読売新聞社がいかなる立ち位置で本論争に参戦し、そのことがどのような意味をもっていたのかを検討することは、より詳細に本論争の全体像を把捉する上で重要な営為だと思われる。本研究では、主論戦場である東京を拠点に発展してきた読売新聞社と、大阪資本として東京に参入してきた「東朝」「東日」の3社の関係に着目しながら、当時の日本社会における本論争の全体像を明らかにし、本論争が野球文化の形成過程においていかなる契機となったのかについて検討する。

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