講演情報
[O05-P06]糸魚川でのヒスイ発見に至る相馬御風の推理過程 -地球神話学の具体例-★招待講演
*竹之内 耕1 (1.糸魚川フォッサマグナミュージアム)
キーワード:
ヒスイの発見、ヒスイ文化、古事記、万葉集、伝承
日本におけるヒスイ文化(縄文時代~古墳時代のヒスイ製玉類の生産と拡散)の素材となるヒスイ(ヒスイ輝石岩)の発見の示唆を与えたのは,地質学者でも考古学者でもなく糸魚川出身の文人・相馬御風(1883~1950)であったとされる(糸魚川市役所,1976).彼は,古事記・万葉集・奴奈川姫の伝説などの資料を手掛かりに,1930年代にヒスイ探索の指示を出したことが小滝川でのヒスイ発見につながり(河野,1939),さらに長者ケ原遺跡がヒスイ製玉類の工房跡であることの確認につながった(木島,2006).これら彼の一連の思索は,神話などが何らかの歴史上の事実を物語る,あるいは身の回りの自然の成り立ちを説明していると考える地球神話学(野村,2025)の営みに属するものであろう.以下に,御風の推理過程にみられる地球神話学とも言える具体例を紹介する.
御風は,早稲田大学の校歌や童謡『春よ来い』の作詞などで知られ,歌人・詩人・自然主義評論家・作詞家などとして中央の文壇で活躍後,故郷へ戻り良寛研究や郷土史の研究に没頭した.このように彼は古事記や万葉集,伝承などに詳しく,ヒスイについて彼なりの仮説をもっていたであろうと想像されるが,ヒスイについて彼自身が記した資料は未だ発見されていない(宮島,2006).
土偶や土器・ヒスイと思しき礫などが出土する長者ケ原遺跡は,明治・大正時代から認識され,御風は自宅からそう遠くない長者ケ原遺跡へ多くの考古学研究者を案内している(木島,2006).ヒスイ文化が古墳時代に終末を迎えて以降,糸魚川がヒスイの産地であることさえも忘れ去られてしまい,各地の遺跡から出土するヒスイ製玉類のヒスイ原産地が,大陸渡来説と国内産説に分かれたほどであった(寺村,1995).彼は,おそらく長者ケ原遺跡で採集された緑色礫はヒスイであると推測したに違いない.
『万葉集』に収められた歌「沼名川の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾いて 得し玉かも あたらしき 君し 老ゆらく惜しも」の中の「沼名川」は,「ぬ(瓊=玉=美しい石)の川」という解釈(佐竹ほか2002)を御風は知っていたはずであり,「底なる玉」はヒスイと予想したのではないかと考えられる.
『古事記』には,古志の奴奈川姫に出雲の八千矛の神(大国主命)が求婚する物語があり,奴奈川姫を訪ね二人が結ばれるまでの問答歌が収められている(池澤,2014).ここで出雲と古志の深い関係が推測されるが,広い古志(現在の福井県~新潟県に及ぶ範囲)の中で,奴奈川姫の在所はどこなのかが問題になる.出雲大社近くの真名井遺跡(弥生時代)では,江戸時代にヒスイ製勾玉が出土している.御風は,大国主命の奴奈川姫への接触は,祭祀の道具とされる勾玉の原料であるヒスイの入手が目的だったと推測したのではないか.
奴奈川姫の在所はどこなのか?糸魚川市内には奴奈川姫を祀る奴奈川神社が複数あり奴奈川の地名も残る.さらに,奴奈川姫の生誕地,住処,亡くなった地と伝わる場所が残り(西頸城郡教育会,1978),大国主命と地元の神が奴奈川姫をめぐって争ったという伝説も残る(糸魚川町々史編纂委員会編,1921).このようなことから奴奈川姫の在所は糸魚川であろうと推測したにちがいない.
以上が,ヒスイが糸魚川に産すると予想した御風の推理過程と考えられる.小滝川でのヒスイ発見を契機に,長者ケ原遺跡の発掘が行われてヒスイ製玉類の工房跡が確認され,北海道から沖縄,さらに海を越えて朝鮮半島までヒスイ製品が広がったことが明らかになった(寺村,1995).ヒスイ産地は天然記念物に,また,長者ケ原遺跡は史跡にそれぞれ指定されて保護された結果,海岸でのヒスイ探索やヒスイ文化の魅力,ヒスイの成因の謎に惹かれて多くの人々が訪れるようになった.ヒスイ発見の物語は,地球神話学に対する肯定的な評価につながるのであろう.
文献:池澤夏樹(訳),2014,『古事記 日本文学全集01』.糸魚川町々史編纂委員会編,1921,『天津神社並奴奈川神社』.糸魚川市役所(編),1976,『糸魚川市史1』.河野義礼,1939,岩石鉱物鉱床学22巻.木島 勉,2006,第14章第6節 遺跡の調査と保存.糸魚川市史編集委員会(編)『糸魚川市史昭和編3』.宮島 宏,2006,第7節ヒスイ再発見とヒスイ保護の歴史.糸魚川市史編集委員会(編)『糸魚川市史昭和編3』.西頸城郡教育会,1978,『西頸城の伝説』.野村律夫,2025,第1章 地球神話への誘い 大地から生まれる物語,日本地質学会編『大地と人の物語』.佐竹昭広ほか,2002,『万葉集三 新日本古典文学大系3』.寺村光晴,1995,『日本の翡翠-その謎を探る-』.
御風は,早稲田大学の校歌や童謡『春よ来い』の作詞などで知られ,歌人・詩人・自然主義評論家・作詞家などとして中央の文壇で活躍後,故郷へ戻り良寛研究や郷土史の研究に没頭した.このように彼は古事記や万葉集,伝承などに詳しく,ヒスイについて彼なりの仮説をもっていたであろうと想像されるが,ヒスイについて彼自身が記した資料は未だ発見されていない(宮島,2006).
土偶や土器・ヒスイと思しき礫などが出土する長者ケ原遺跡は,明治・大正時代から認識され,御風は自宅からそう遠くない長者ケ原遺跡へ多くの考古学研究者を案内している(木島,2006).ヒスイ文化が古墳時代に終末を迎えて以降,糸魚川がヒスイの産地であることさえも忘れ去られてしまい,各地の遺跡から出土するヒスイ製玉類のヒスイ原産地が,大陸渡来説と国内産説に分かれたほどであった(寺村,1995).彼は,おそらく長者ケ原遺跡で採集された緑色礫はヒスイであると推測したに違いない.
『万葉集』に収められた歌「沼名川の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾いて 得し玉かも あたらしき 君し 老ゆらく惜しも」の中の「沼名川」は,「ぬ(瓊=玉=美しい石)の川」という解釈(佐竹ほか2002)を御風は知っていたはずであり,「底なる玉」はヒスイと予想したのではないかと考えられる.
『古事記』には,古志の奴奈川姫に出雲の八千矛の神(大国主命)が求婚する物語があり,奴奈川姫を訪ね二人が結ばれるまでの問答歌が収められている(池澤,2014).ここで出雲と古志の深い関係が推測されるが,広い古志(現在の福井県~新潟県に及ぶ範囲)の中で,奴奈川姫の在所はどこなのかが問題になる.出雲大社近くの真名井遺跡(弥生時代)では,江戸時代にヒスイ製勾玉が出土している.御風は,大国主命の奴奈川姫への接触は,祭祀の道具とされる勾玉の原料であるヒスイの入手が目的だったと推測したのではないか.
奴奈川姫の在所はどこなのか?糸魚川市内には奴奈川姫を祀る奴奈川神社が複数あり奴奈川の地名も残る.さらに,奴奈川姫の生誕地,住処,亡くなった地と伝わる場所が残り(西頸城郡教育会,1978),大国主命と地元の神が奴奈川姫をめぐって争ったという伝説も残る(糸魚川町々史編纂委員会編,1921).このようなことから奴奈川姫の在所は糸魚川であろうと推測したにちがいない.
以上が,ヒスイが糸魚川に産すると予想した御風の推理過程と考えられる.小滝川でのヒスイ発見を契機に,長者ケ原遺跡の発掘が行われてヒスイ製玉類の工房跡が確認され,北海道から沖縄,さらに海を越えて朝鮮半島までヒスイ製品が広がったことが明らかになった(寺村,1995).ヒスイ産地は天然記念物に,また,長者ケ原遺跡は史跡にそれぞれ指定されて保護された結果,海岸でのヒスイ探索やヒスイ文化の魅力,ヒスイの成因の謎に惹かれて多くの人々が訪れるようになった.ヒスイ発見の物語は,地球神話学に対する肯定的な評価につながるのであろう.
文献:池澤夏樹(訳),2014,『古事記 日本文学全集01』.糸魚川町々史編纂委員会編,1921,『天津神社並奴奈川神社』.糸魚川市役所(編),1976,『糸魚川市史1』.河野義礼,1939,岩石鉱物鉱床学22巻.木島 勉,2006,第14章第6節 遺跡の調査と保存.糸魚川市史編集委員会(編)『糸魚川市史昭和編3』.宮島 宏,2006,第7節ヒスイ再発見とヒスイ保護の歴史.糸魚川市史編集委員会(編)『糸魚川市史昭和編3』.西頸城郡教育会,1978,『西頸城の伝説』.野村律夫,2025,第1章 地球神話への誘い 大地から生まれる物語,日本地質学会編『大地と人の物語』.佐竹昭広ほか,2002,『万葉集三 新日本古典文学大系3』.寺村光晴,1995,『日本の翡翠-その謎を探る-』.
