講演情報
[教育講演6]臨床工学技士のルーツは日本医療機器学会にあり
小野 哲章 (滋慶医療科学大学大学院 客員教授)
ラジオ少年であった筆者は当然のごとく大学は電気科(電気電子工学科)に進んだ.大学3年次の時「医用電子工学」の授業に遭遇し,そこからME人生が始まった.当然,卒業研究はME研究室(金井寛教授)に入り,そのまま大学院に進むことに.大学院博士課程修了前の秋,三井記念病院手術部部長の尾本良三先生が金井教授を訪ねてきて「三井記念病院に院内ME部門を作りたい.そのリーダーとなる人材を頂きたい.」との話があり,筆者がこれを受諾し,翌年,博士課程(工学博士)修了と同時に三井記念病院に入職した.ここに我が臨床工学人生が始まる.2年後1974年に,正式に「三井記念病院MEサービス部」という部が発足し技師長に就任した.部長も含め6名での出発であった.その頃,医科器械学会(現医療機器学会)誌に米国の病院Clinical Engineering(CE)部門の紹介や米国CE部門長の方の記事などが載っていた.これらを参考に,MEサービス部の組織体制や業務内容を構築していった.医科器械学会は会費も安く,学会誌は年間12冊も発行されていたので,部員全員で入会し,勉強や研究の友として活用し,成果は大会で発表し,「三井記念病院MEサービス部,ここにあり」を発信していった.一方,ME学会(現生体医工学会)にはクリニカルエンジニアリング研究委員会(委員長:金井,幹事:小野)が発足し,日本のCE制度の検討に入った.この研究会は,翌年には日本医科器械学会(都築正和教授),翌々年には透析療法合同委員会(太田和夫教授)とで「合同CE委員会」が結成され,「我が国におけるCEの基本理念構築,CE技師の役割と教育の実際」に関して具体的な検討が開始された.合同委員会の活動成果は毎年度末に「合同委員会報告」として発行された.この中で,CE技師(臨床工学技師と仮称)の養成課程の詳細,カリキュラムの構築,アンケートに基づく業務範囲の検討等が,次々に提案された.これらは,現在の臨床工学技士制度の根幹をなすものであった.そんな中,1986年初頭に合同委員会の主要メンバーが,厚生省(当時)瀬上清貴氏に,発足したばかりの医療機器センターの一室に召集され,臨床工学技士法の骨子となる名称,業務,将来予測,教育制度,教育内容等の下準備が言い渡された.これらは合同CE委員会が報告書でまとめていたことであるので,着々と準備は進行し,1987年6月の臨床工学技士法成立へと結実していくのである.