講演情報

[CD-18]「見る(知覚する)こと」は意味を読み取る行為か?

*本田 慎一郎1 (1. リハ塾SHIN)
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ペルフェッティは,バレーラ(2001)の「身体化された精神」を臨床文脈で「精神化された身体」と言い換え,身体運動を単なる反応ではなく意味を帯びた出来事として捉える視点を示した.この立場は運動と知覚を切り離さずに理解し,リハビリテーションの方法論に直結する.発語を運動,理解(解読)を知覚とみなすと,「すべての発語は理解であり,すべての理解は発語である」と円環的に再定式化できる.従来のように両者を分離して解釈し訓練するのではなく,その関係性に着目する必要がある.さらに人間の知覚は言語獲得以降,すでに言語が組み込まれ意味づけされている.なぜならバレーラとマトゥラーナ(2011/原著1984)は「人間のすべての行為は言語の中で起きる」と述べ,言語的行為が他者との共在を通じて世界を立ち上げる営みであることを強調した.
本発表では,脳梗塞後(左半球損傷)の症例を紹介する.彼は喚語困難と聴理解低下を示し,SLTA「漫画の説明」で人物の足元に描かれた「=3」の動きを示す記号を「数字の3」と解読した.すなわち動きの象徴を静的な数として意味化したのである.この事例は,知覚経験に言語が組み込まれているがゆえに,その解読の歪みが発語へと反映されることを示す.先のSLTAは談話の評価に留まり,「なぜその発語が生じたのか」を問う視点を欠いている.症状の本質は,視覚情報を文脈に基づき“転用”する力の(解読)障害である.重要なのは,適切な発語を聴理解のみに還元せず,視覚世界の解読を含めて理解する点である.すなわち,失語症状の背後には,言語と知覚が絡み合う「みえない病態」が存在し,その再構成こそ臨床の課題となる.