講演情報
[SY-07]言葉が観えない…でもそこにある!
*中里 瑠美子1 (1. 脳神経リハビリセンター吉祥寺)
このセッションでは言語能力の拡張について、臨床の経験知から検討したい。
言語は患者の内的世界に接近するための窓口になる。しかし脳血管障害では、その言語機能が変質してしまうことが多く、また発語があったとしてもその真意が観えにくいこともある。標準化された検査のスコアだけでは、その人がどこで混乱して困っているのかが現れない。臨床家は別の視座から、その人固有のつまずきを紐解きながら、共にそれを観て共有していく必要がある。
ブルーナーによる「何かを知るための3つの手段」は、行為的表象としての運動、映像的表象としての視覚、そして象徴的表象として言語があり、相互に統合されて概念や行為の意味を創り、他者との共感や社会性にもつながっていく基本的な構造であると考える。この3つの機能がシステムとしてつながっていることを考えれば、視覚と運動の関係性を再構築していくことで言語機能の拡張も図ることができるのではないか。そうであれば失語症や劣位半球症状など、言葉が観えないあるいは観えにくい方にも有効だろう。運動の意味を考える際には必ず感覚がたちあがり、感覚は情動であり体験世界での記憶とつないでいく。そしてそこに内言語が発現するからだ。実際に、運動のイメージを想起する課題中に、いきなり文レベルの言語が発現する場面も少なくない。患者は、その時全く意識することなくその言葉を発しているのだ。「わかんない、もう1回やって」と言った全失語の方がおられるが、その時の彼の経験は‘手の動きが分からない’というものであり‘もう1回感じてみたい’という欲求であっただろう。ご家族は驚かれたが本人は全く気づくことなく、閉眼のまま「やって」ともう一度言ったのである。
本セッションでは、2人の言語のエキスパートと共に、そこにあるけど観えない言語をどうやって掘り起こすのか、臨床経験を基にしたディスカッションを通して、これからの臨床のヒントを探ってみたい。
言語は患者の内的世界に接近するための窓口になる。しかし脳血管障害では、その言語機能が変質してしまうことが多く、また発語があったとしてもその真意が観えにくいこともある。標準化された検査のスコアだけでは、その人がどこで混乱して困っているのかが現れない。臨床家は別の視座から、その人固有のつまずきを紐解きながら、共にそれを観て共有していく必要がある。
ブルーナーによる「何かを知るための3つの手段」は、行為的表象としての運動、映像的表象としての視覚、そして象徴的表象として言語があり、相互に統合されて概念や行為の意味を創り、他者との共感や社会性にもつながっていく基本的な構造であると考える。この3つの機能がシステムとしてつながっていることを考えれば、視覚と運動の関係性を再構築していくことで言語機能の拡張も図ることができるのではないか。そうであれば失語症や劣位半球症状など、言葉が観えないあるいは観えにくい方にも有効だろう。運動の意味を考える際には必ず感覚がたちあがり、感覚は情動であり体験世界での記憶とつないでいく。そしてそこに内言語が発現するからだ。実際に、運動のイメージを想起する課題中に、いきなり文レベルの言語が発現する場面も少なくない。患者は、その時全く意識することなくその言葉を発しているのだ。「わかんない、もう1回やって」と言った全失語の方がおられるが、その時の彼の経験は‘手の動きが分からない’というものであり‘もう1回感じてみたい’という欲求であっただろう。ご家族は驚かれたが本人は全く気づくことなく、閉眼のまま「やって」ともう一度言ったのである。
本セッションでは、2人の言語のエキスパートと共に、そこにあるけど観えない言語をどうやって掘り起こすのか、臨床経験を基にしたディスカッションを通して、これからの臨床のヒントを探ってみたい。
