講演情報
[01史-口-05]戦後日本の国立大学附属高等学校における保健科の実践構想
*近藤 雄大1 (1. 津山工業高等専門学校)
戦後日本における保健科の成立は、近代日本への衛生概念の導入過程で内在化されていた健康教育機能が、戦後に制度として具現化した出来事の一つとして捉えられてきた。この近代的な健康教育システムは、本来、その後の具体的な実践と相即するものである。しかし、実践者が成立した保健科をどの程度受容し、どのような具体的実践に繋げたのか、すなわち、実際にいかなる保健科の実践が構想・実施されていたのかについては、十分に明らかにされていない。
そこで、本研究では、戦後教育改革において模範と研究という役割を与えられた国立大学附属高等学校(以下「附高」)を事例として、戦後日本(1950年代後半から1970年代後半)において、どのような保健科の実践が構想・実施されていたのか、その一端を明らかにすることを目的とする。
まず、附高の制度的な位置づけを改めて概観した結果、附高は、附小や附中と体制の確立時期に差異があるものの、同様に模範と研究という役割を担う研究・実証学校および実習学校であったといえる。
次に、現存する附高(19校)の当該時期における紀要論稿(3,021件)を通覧し、7校15件の高等学校保健科に関する論稿を抽出した。これら附高の研究体制を整理した結果、附高は、自校の制度的な位置づけを十分に自覚し、それを具体化するための組織的かつ多様な研究体制下で実践に取り組んでいたことが確認できる。いずれの附高においても、実践者は、単なる教員にとどまらず、学校教育を模索・構築する研究者としての自覚をもって実践に取り組んでいたことが読み取れる。
最後に、抽出した論稿について、教育工学的なADDIEモデルを分析視点として検討した。その結果、附高における保健科の実践は、文部省が示す標準的な枠組みの中にありながらも、提示された自明の健康教育観を問い直し、再定義・再検討を試みるという逆説的な構造を有していたと仮説的に提示できる。
そこで、本研究では、戦後教育改革において模範と研究という役割を与えられた国立大学附属高等学校(以下「附高」)を事例として、戦後日本(1950年代後半から1970年代後半)において、どのような保健科の実践が構想・実施されていたのか、その一端を明らかにすることを目的とする。
まず、附高の制度的な位置づけを改めて概観した結果、附高は、附小や附中と体制の確立時期に差異があるものの、同様に模範と研究という役割を担う研究・実証学校および実習学校であったといえる。
次に、現存する附高(19校)の当該時期における紀要論稿(3,021件)を通覧し、7校15件の高等学校保健科に関する論稿を抽出した。これら附高の研究体制を整理した結果、附高は、自校の制度的な位置づけを十分に自覚し、それを具体化するための組織的かつ多様な研究体制下で実践に取り組んでいたことが確認できる。いずれの附高においても、実践者は、単なる教員にとどまらず、学校教育を模索・構築する研究者としての自覚をもって実践に取り組んでいたことが読み取れる。
最後に、抽出した論稿について、教育工学的なADDIEモデルを分析視点として検討した。その結果、附高における保健科の実践は、文部省が示す標準的な枠組みの中にありながらも、提示された自明の健康教育観を問い直し、再定義・再検討を試みるという逆説的な構造を有していたと仮説的に提示できる。
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