講演情報
[00哲-口-02]生物学的な身体と生の問題
*関根 正美1 (1. 日本体育大学)
2024年の学会大会における発表は、2005年の論考で至らなかった身体論を存在論として可能性が一方的に減じる身体そのものを考えた。今回は、さらに身体の問題を生のありかたと結びつけて展開してみたい。動けなくなった、できない身体は、それが加齢による場合、残された身体の可能性を用いて新たな身体経験の世界を創ることが可能である。それが2005年の趣旨であった。この場合、新たな身体経験の世界は精神の世界であり、加齢による身体の衰えそのものを軽視した思考であったというのが、2024年の発表内容であった。その加齢に代表される(病気や怪我による身体も含まれる可能性がある)物体化しつつある身体に意味はあるのかを問うことが、本研究の目的である。それは、2024年の発表内容を踏まえて、物体化しつつある身体(もはや新たなスポーツの習得が難しい、日々衰えつつある身体)で生きるときに、精神でそのマイナス面を補ったりするのではなく、あくまでも物体化しつつある身体で生きることの意味が問われることになる。その際、「生」、「生きること」についての繊細な考察が必要になる。そこで方法として、「生」をめぐる概念である「ビオス」と「ゾーエー」の概念を手掛かりとして身体と生の関係、物体化した身体で生きる意味について考察を行う。政治的な生であるならば、「ビオス」の優位性が容易に語られると思われる。しかし体育が考えるべき身体の自然性が大きく関与する生のあり方は、「ゾーエー」に対する「ビオス」の優位を目指すことが妥当なのか。「ゾーエー」を思想史的に見直す議論の紹介も含めて、自然的存在としての身体を生きることを考えてみたい。
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