講演情報
[01史-口-03]戦時下の日本体育会体操学校および日本体育専門学校学校生活と戦没同窓生の実態解明
*関口 雄飛1、福井 元2 (1. 富山大学/日本体育大学(客員研究員)、2. 日本体育大学)
日本体育大学の前身は、日本体育会体操学校(以下、体操学校)とその後進である日本体育専門学校(以下、専門学校)である。体操学校と専門学校では、1937年7月の日中戦争勃発以来、1941年12月のアジア・太平洋戦争勃発までの4年間に、同窓生約1000名が出征、その1割近くが戦死したとされる。戦後、1958年には東京・世田谷キャンパスに戦没同窓生の慰霊碑が建立され、戦後70年目を迎えた2015年以降の毎年8月にはその前で慰霊式が挙行されるようになった。新聞をはじめとするマスメディアでは、同窓生約1000名が出征、400名弱が戦死し、その中には、1936年ベルリンオリンピック体操競技日本代表の有本彦六も含まれていると報じられてきた。 しかし、戦没同窓生が、いつ、どこで、誰が、どのように亡くなっていったのかは、戦後80年を前にした2024年4月以降、日本体育大学オリンピックスポーツ文化研究所が戦没オリンピアン・有本彦六氏に関する調査に乗り出すまで全く解明されてこなかった。また、戦時下の学校生活の実態についても『学校法人日本体育会日本体育大学八十年史』を除いて十分な調査が行われてきたとは言えない。その主たる理由は、1945年5月24日の山の手空襲によって学校本館をはじめとする8棟とともに、史資料の多くが焼失したことにあると考えられる。こうした状況に対し、近年、同窓会回顧録や同期会会報等の発掘、国立国会図書館におけるデジタルアーカイブの公開等が進んだことによって、戦時下の体操学校と専門学校に関する調査・研究が遂行可能となった。 以上の経緯を受けて、本発表では、まず、戦時下の体操学校と専門学校における学校生活の様相を素描し、次いで、日中戦争およびアジア・太平洋戦争で戦死した同窓生に関する調査結果を示す。主な史資料は、同窓会回顧録、同期会会報、各部隊史等を用いる。
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