講演情報

[O05-P03]『古事記』神話の配列と完新世環境変動
― 神話叙述に保存された長期間の認識記録 ―★招待講演

*後藤 秀昭1 (1.広島大学大学院人間社会科学研究科)

キーワード:

古事記、神話、完新世、景観変化、地形発達

『古事記』に記された神話は,語彙や構文に基づく精密な本文読解を通じて,異なる時代に形成された複数の語りが編集・統合されたテクストであると理解されてきた(倉野,1963 など)。また,神話学・民俗学においては,神話や口承文芸は,世代を超えて知識や経験を保存・伝達する文化的装置として位置づけられている(Vitaliano, 1973 など)。
 近年では,物語や歌謡の表現が,長期的な自然環境に関する認識を伝達する媒体となり得ることが,実証的研究によって示されつつある。たとえば,琉球古典音楽に含まれる航海歌では,歌詞中に表現された季節風や火山活動に関する描写が,近代的な気候学・火山学的知見および歴史記録と整合的であることが示されており(Higa et al., 2025),環境に関する知が長期にわたり保持されてきた可能性が指摘されている。
 『古事記』の神話の一部については,自然現象の象徴として個別に解釈した研究がこれまでにも提示されてきた。しかし,神話全体の配列構造に着目し,それを環境史の時間軸に沿って体系的に解釈した研究は,管見の限り見当たらない。
 本研究では,国生み神話から出雲神話の初期段階に至る『古事記』神話の配列に注目し,それらを完新世における自然環境変化との対応関係から検討する。すなわち,長期にわたる環境史に関する認識が,口承を通じて世代間で継承され,日本神話として叙述された可能性を提示することを目的とする。具体的には,『古事記』に記された神話の配列順を保持したまま,完新世における海面上昇,気候変動,火山噴火といった主要な環境変動史との対応づけを試みる仮説を提示する。
 国生み神話は,完新世初頭に進行した海面上昇と対応づけて解釈することが可能であり,海を治める役割を与えられたスサノウがそれを果たせなかったとする叙述は,当時の不安定な海洋環境に対する人々の認識を反映したものと考えられる。誓約によって剣から誕生した宗像三女神は,九州北部沖に延びる西山断層およびその延長に位置する海底活断層によって規定された地形軸に沿う島列や航路を象徴的に表現した可能性がある。
また,高天原におけるスサノウの乱暴な振る舞いは,ヒプシサーマルに向かう過程で生じた気候の不安定化を象徴的に示す叙述と解釈でき,アマテラスの岩戸隠れは,約7,300年前の鬼界カルデラ噴火に伴う広域的な暗化現象を神話的に表現した可能性がある。アメノウズメの描写は,降雨による環境の洗浄と明るさの回復を象徴的に示したものと理解できる。
 この後,神話の舞台は出雲へと移行し,ヤマタノオロチ退治や因幡の素兎神話へと展開する。ヤマタノオロチ退治は,ヒプシサーマル期における湿潤な気候条件のもとで,洪水や斜面崩壊などの地形災害リスクが高かった自然環境を反映した叙述である可能性がある。また,因幡の素兎神話は,海進後に河川作用によって平野が形成されつつある過程を象徴的に描いたものと解釈することができる(後藤,2026)。
 以上より,日本神話は,個々の自然現象を断片的に寓意化したものとしてではなく,完新世における環境変動を段階的に記憶・構造化した叙事体系として再解釈できる可能性がある。本研究は,人文資料を環境史研究に位置づけることにより,従来の自然科学的資料のみでは把握が困難であった長期的な環境変動の認識過程を検討するための新たな視点を提供するものと考えられる。