岐阜の小ネタ②
岐阜城――安土城につながる城
岐阜城と聞くと、金華山の山頂に立つ天守を思い浮かべる人が多いかもしれません。
もともとは稲葉山城と呼ばれ、斎藤氏の本拠でした。1567年、織田信長が斎藤龍興の稲葉山城を攻略し、この地を本拠とします。
ただ、信長の岐阜城を考えるとき、山の上だけを見ていると少し足りません。
現在の岐阜公園一帯には、山麓の居館がありました。この居館は信長が一から造ったものではなく、斎藤氏の時代から整備されていたものを、信長が大規模に造成・改修したと考えられています。
発掘調査では、巨石を立て並べた入口、建物跡、金箔を施した瓦、巨大な岩盤を背景にした庭園などが見つかっています。複数の庭園が設けられた華やかな空間で、単に生活するだけではなく、訪れた人に見せることを意識した場所だったことがうかがえます。
山上にも興味深い痕跡があります。
近年の発掘調査では、斎藤氏の時代に築かれたとみられる石垣が各所で確認され、山上の城郭の基本的な構造がすでに斎藤氏の時代に形づくられていた可能性が指摘されています。一方、天守台の石垣については、信長の時代まで遡る可能性もあるとされています。
また、1569年に岐阜を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、山上の豪華な座敷に招かれ、信長自らのもてなしを受けたことを記録しています。
岐阜城は、敵から身を守るだけの城ではありませんでした。山麓にも山上にも、人を招き、見せ、もてなすための空間があったのです。
信長は岐阜をおよそ10年間本拠としたのち、1576年に近江の安土へ移り、安土城を築きます。
壮大な石垣、高層の天主、華やかな建築で知られる安土城。その前の岐阜城には、すでに石垣、金箔瓦、庭園、豪華な居館、そして人に見せるための空間がありました。
岐阜で生まれたものがそのまま安土で完成した、と単純に言うことはできません。しかし、岐阜城の発掘成果は、信長の城づくりが安土城へと発展していく過程を考える重要な手掛かりになっています。
現在、金華山の山頂に立つ天守は、1956年に建てられた復興天守です。
山頂の天守を見たあと、岐阜公園に残る山麓居館の跡も歩いてみると、安土へ向かう前の信長の姿が少し見えてくるかもしれません。

