講演情報
[学校保健体育-SA-1]体育の「よい授業」とは何かを問うことをめぐる歴史
*鈴木 秀人1 (1. 東京学芸大学大学院)
<演者略歴>
東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了。博士(体育科学)。専攻は体育科教育学、スポーツ教育学。
東京都の公立小学校、鹿児島大学教育学部勤務を経て現職。再編された教職大学院において、教科領域指導プログラム・保健体育教育サブプログラム代表を務める。民間教育研究団体の全国体育学習研究会会長。
東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了。博士(体育科学)。専攻は体育科教育学、スポーツ教育学。
東京都の公立小学校、鹿児島大学教育学部勤務を経て現職。再編された教職大学院において、教科領域指導プログラム・保健体育教育サブプログラム代表を務める。民間教育研究団体の全国体育学習研究会会長。
本シンポジウムの趣旨にあるように、保健体育だけがあえて「良質」という表現を用いるのは、誤解を恐れずに言えば、その対極にある「悪質」な保健体育の存在が、言わば暗黙の前提にされているからではないか。
そのような存在としては、古くは戦前・戦中期に行われた「身体の教育」としての実践が、また戦後においても、「運動による教育」を理論的基盤としながら展開された鉄棒の逆上がりや跳び箱の開脚跳び越しの「全員達成」、あるいは、業間体育を舞台にした「体力づくり」の実践などが、批判的に語られることが少なくなかった。
私が参加してきた民間の体育研究団体でも、そういった過去の実践を想起しつつ、「これまでの体育は×××」だったが、「これからの体育は〇〇〇」あるべき、といった議論がよく交わされていた。こういった議論は、民間研の間では、それぞれが実践の根拠とする体育授業論の是非を問う議論へと広がっていき、1990年代には、学会や専門誌の誌上で激しい議論が戦わされた。
しかしながら現在は、そういったやりとりは、少なくとも学校教育現場では活発ではない。それがなぜなのかを考えながら、そういった状況の中で、「良質」な保健体育を問うことの意味を検討してみる。
そのような存在としては、古くは戦前・戦中期に行われた「身体の教育」としての実践が、また戦後においても、「運動による教育」を理論的基盤としながら展開された鉄棒の逆上がりや跳び箱の開脚跳び越しの「全員達成」、あるいは、業間体育を舞台にした「体力づくり」の実践などが、批判的に語られることが少なくなかった。
私が参加してきた民間の体育研究団体でも、そういった過去の実践を想起しつつ、「これまでの体育は×××」だったが、「これからの体育は〇〇〇」あるべき、といった議論がよく交わされていた。こういった議論は、民間研の間では、それぞれが実践の根拠とする体育授業論の是非を問う議論へと広がっていき、1990年代には、学会や専門誌の誌上で激しい議論が戦わされた。
しかしながら現在は、そういったやりとりは、少なくとも学校教育現場では活発ではない。それがなぜなのかを考えながら、そういった状況の中で、「良質」な保健体育を問うことの意味を検討してみる。
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