講演情報
[T14-O-18]地域石材の利用分布把握における「残置石」の視点―市民協働による地質文化資源の発掘―
*田口 公則1、山下 浩之1 (1. 神奈川県立生命の星・地球博物館)
キーワード:
残置石、地質文化資源、地域石材
1. はじめに
神奈川県西部の箱根ジオパーク周辺を対象として,地域石材の利用実態や分布を自然科学と人文科学の両面から解明する科研費プロジェクト「地域地質資源の発掘と調査,普及を通したプログラムの開発と試行(JP23K02805)」を進めている.本研究では,岩石学的分析と歴史資料・聞き取り調査を組み合わせて石材利用の実態を解明するとともに,その成果を市民へ還元し,新たな情報収集へ結びつける「地域石材の市民参加型調査」の構築をふまえながら,その対象を神奈川県全域に広げ,各地に眠る地域石材の存在を明らかにすることを目指している.
2. 地域石材利用の地域分布把握における課題
これまで石材の産地同定や地域分布の調査では,城郭石垣,石段,石仏,石碑など歴史的価値の高い石造物を主な対象としてきた.箱根火山を構成する溶岩類の岩石学的データを用いた産地同定では,小田原城二の丸の石垣の供給源を特定するなど一定の成果を得ている.一方で,このような調査対象は歴史的・社会的に重要な石造物へ偏るため,庶民の生活空間における具体的な利用や,その利用地域の広がりを把握するには限界があった.とくに,生活インフラとして利用されることの多いローカルな地産地消の石材などは,これまで見過ごされてきた側面がある.
3. 「残置石」という視点
この課題を克服するため,本研究では,利用の役目を終えた後,廃棄されず生活空間(敷地内や道路沿いなど)に残された石材を「残置石」と呼び,新たな調査対象とする.従来の石造物調査は,現役の石造物を対象としてきたが,残置石にも目を向け対象を拡張する.景観デザインの視点から生活風景の置石を論じた杉本(2013),路傍の「いけず石」の岩石種と分布を調査した中条(2023)は,日常景観に埋もれた無名の石が地域の履歴を伝える資料となることを示している.本研究の「残置石」もその延長線上に位置づけられるが,石材の利用分布を捉える手がかりとして体系的に活用しようとする点に特徴がある.
東丹沢山麓で産出する石材・七沢石(火山礫凝灰岩,凝灰質粗粒砂岩)の石造物分布調査では,この視点の有効性を確認した.七沢石製石造物は産地に近い厚木市および伊勢原市周辺では多く認められるが,平塚・大磯・二宮方面へ向かうにつれて減少し,箱根産安山岩類へ置き換わる傾向がある(早田, 2015).この分布境界域において,地神塔の脇に残されていた旧石造物部材(残置石)が七沢石製であることを確認し,現役の石造物では見出せなかった新たな分布地点として把握することができた.このことは,残置石が現役の石造物では把握できない石材利用の痕跡を保持していることを示している.表側に見える石造物,すなわち文化財として注目されてきた石造物だけでなく,その脇の生活空間に残された残置石を調査対象に加えることで,地域石材の利用分布をより詳細に把握できる可能性が示された.
4. 市民参加型調査で明らかになった課題
残置石を地域石材の利用分布を知る手がかりとして活用するため,市民からの情報提供を呼びかける試みを行った.しかし,研究者による踏査では有効性が確認された一方,市民からの情報提供は得られなかった.この背景には,市民が残置石を調査対象として認識しにくいという「認知の壁」が存在すると考えられる.「いけず石」のように道路沿いで目につきやすい対象とは異なり,残置石は個人宅の庭先や敷地内など風景へ埋没している場合が多く,さらに立ち入りが難しいという制約もある.つまり,研究者にとっては有用な地質文化資源であっても,市民にとっては単なる「古い石」に過ぎず,調査対象として認識されないのである.また,銘文や歴史的由来をもつ石造物と比べ,地域石材そのものに着目する視点は一般には共有されていない.このような対象認識の差異が,市民参加型調査の実施における大きな障壁となっている.
5. おわりに
家屋の建て替えや宅地開発に伴い,残置石は急速に失われつつある.残置石という視点は,地域石材の利用分布の把握だけでなく,人と地域石材との関わりを読み解く新たな手がかりとして位置づけられる可能性を持つ.その活用には市民が石材を調査対象として認識できる環境づくりが不可欠である.今後は,岩石学的特徴を平易に伝える教材や観察指標を整備し,「認知の壁」を越える市民参加型調査の方法論について検討したい.
【引用文献】
早田旅人(2015)近世平塚周辺の石工と石材流通―石工銘と石材による試論―.平塚市博物館研究報告「自然と文化」,38,1-10.
中条武司(2023)路傍に置かれる「いけず石」の岩石種と分布調査(予察).日本地質学会第130年学術大会講演要旨,T10-P-3.
杉本 清(2013)置石考 : プライベートとパブリックの境界領域に見る生活風景.デザイン理論,62,41-54.
神奈川県西部の箱根ジオパーク周辺を対象として,地域石材の利用実態や分布を自然科学と人文科学の両面から解明する科研費プロジェクト「地域地質資源の発掘と調査,普及を通したプログラムの開発と試行(JP23K02805)」を進めている.本研究では,岩石学的分析と歴史資料・聞き取り調査を組み合わせて石材利用の実態を解明するとともに,その成果を市民へ還元し,新たな情報収集へ結びつける「地域石材の市民参加型調査」の構築をふまえながら,その対象を神奈川県全域に広げ,各地に眠る地域石材の存在を明らかにすることを目指している.
2. 地域石材利用の地域分布把握における課題
これまで石材の産地同定や地域分布の調査では,城郭石垣,石段,石仏,石碑など歴史的価値の高い石造物を主な対象としてきた.箱根火山を構成する溶岩類の岩石学的データを用いた産地同定では,小田原城二の丸の石垣の供給源を特定するなど一定の成果を得ている.一方で,このような調査対象は歴史的・社会的に重要な石造物へ偏るため,庶民の生活空間における具体的な利用や,その利用地域の広がりを把握するには限界があった.とくに,生活インフラとして利用されることの多いローカルな地産地消の石材などは,これまで見過ごされてきた側面がある.
3. 「残置石」という視点
この課題を克服するため,本研究では,利用の役目を終えた後,廃棄されず生活空間(敷地内や道路沿いなど)に残された石材を「残置石」と呼び,新たな調査対象とする.従来の石造物調査は,現役の石造物を対象としてきたが,残置石にも目を向け対象を拡張する.景観デザインの視点から生活風景の置石を論じた杉本(2013),路傍の「いけず石」の岩石種と分布を調査した中条(2023)は,日常景観に埋もれた無名の石が地域の履歴を伝える資料となることを示している.本研究の「残置石」もその延長線上に位置づけられるが,石材の利用分布を捉える手がかりとして体系的に活用しようとする点に特徴がある.
東丹沢山麓で産出する石材・七沢石(火山礫凝灰岩,凝灰質粗粒砂岩)の石造物分布調査では,この視点の有効性を確認した.七沢石製石造物は産地に近い厚木市および伊勢原市周辺では多く認められるが,平塚・大磯・二宮方面へ向かうにつれて減少し,箱根産安山岩類へ置き換わる傾向がある(早田, 2015).この分布境界域において,地神塔の脇に残されていた旧石造物部材(残置石)が七沢石製であることを確認し,現役の石造物では見出せなかった新たな分布地点として把握することができた.このことは,残置石が現役の石造物では把握できない石材利用の痕跡を保持していることを示している.表側に見える石造物,すなわち文化財として注目されてきた石造物だけでなく,その脇の生活空間に残された残置石を調査対象に加えることで,地域石材の利用分布をより詳細に把握できる可能性が示された.
4. 市民参加型調査で明らかになった課題
残置石を地域石材の利用分布を知る手がかりとして活用するため,市民からの情報提供を呼びかける試みを行った.しかし,研究者による踏査では有効性が確認された一方,市民からの情報提供は得られなかった.この背景には,市民が残置石を調査対象として認識しにくいという「認知の壁」が存在すると考えられる.「いけず石」のように道路沿いで目につきやすい対象とは異なり,残置石は個人宅の庭先や敷地内など風景へ埋没している場合が多く,さらに立ち入りが難しいという制約もある.つまり,研究者にとっては有用な地質文化資源であっても,市民にとっては単なる「古い石」に過ぎず,調査対象として認識されないのである.また,銘文や歴史的由来をもつ石造物と比べ,地域石材そのものに着目する視点は一般には共有されていない.このような対象認識の差異が,市民参加型調査の実施における大きな障壁となっている.
5. おわりに
家屋の建て替えや宅地開発に伴い,残置石は急速に失われつつある.残置石という視点は,地域石材の利用分布の把握だけでなく,人と地域石材との関わりを読み解く新たな手がかりとして位置づけられる可能性を持つ.その活用には市民が石材を調査対象として認識できる環境づくりが不可欠である.今後は,岩石学的特徴を平易に伝える教材や観察指標を整備し,「認知の壁」を越える市民参加型調査の方法論について検討したい.
【引用文献】
早田旅人(2015)近世平塚周辺の石工と石材流通―石工銘と石材による試論―.平塚市博物館研究報告「自然と文化」,38,1-10.
中条武司(2023)路傍に置かれる「いけず石」の岩石種と分布調査(予察).日本地質学会第130年学術大会講演要旨,T10-P-3.
杉本 清(2013)置石考 : プライベートとパブリックの境界領域に見る生活風景.デザイン理論,62,41-54.
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