講演情報
[T14-P-3]「地学系」詩人の系譜:宮沢賢治・草野心平・永瀬清子
*石渡 明1 (1. 地質学史懇話会会長)
キーワード:
詩、児童文学、出生地の地形と地質、金属鉱山と炭鉱、太古からの地球との一体感
宮沢賢治(1896-1933)は岩手県花巻市出身で、学生時代に地質学を学び、その童話や詩には岩石・鉱物・化石名や地質時代名、地質現象等が頻出し、地質学者が論考している(宮城一男 1975「宮沢賢治 農民の地学者」築地書館;1977「宮沢賢治-地学と文学…」玉川大学出版部;1980「宮沢賢治の生涯」筑摩書房;蟹澤聰史2003地質ニュース589, 55-69;加藤碩一2006「宮沢賢治の地的世界」愛智出版など)。『銀河鉄道の夜』等の時空や生死を超えた往還、小さい者や差別された者への愛も賢治作品の特徴である。これらは、彼が信仰した法華経が説く、難路に化城を現じて旅人を救い、三車の方便で火宅から愛児を救う類の宗教的実践だったのだろう。
草野心平(1903-1988)は福島県いわき市小川町出身の詩人で、生前はほとんど無名だった賢治の作品を世に広めるのに大きく貢献した。以下、心平(1980)編「新修宮沢賢治全集別巻」筑摩書房と同(2010)「草野心平詩集」ハルキ文庫の年譜より経緯を抜粋する。28歳の賢治は1924年4月に心象スケッチ「春と修羅」、12月に童話「注文の多い料理店」を各1,000部自費出版したが、あまり売れなかった。21歳の心平は中国の嶺南(中山)大学に留学中だったが、同年9月に友人から届いた「春と修羅」を読んで感動し、翌1925年に帰国後、賢治を心平らの「銅鑼」同人に勧誘した。賢治からは「私は、詩人としては自信がありませんが、一個のサイエンチストとしては、認めていただきたいと思います」との返事と詩2編及び1円の為替が届いた(北条常久2009「詩友 国境を越えて 草野心平と光太郎・賢治・黄瀛」風濤社p. 123)。心平は1926年「詩神」8月号の評論『三人』で賢治を天才と激賞し、1931年には同誌7月号に『宮沢賢治論』を発表した。賢治は、1931~1932年、「児童文学」に『グスコーブドリの伝記』など2編の童話、1933年、吉田一穂らの「新詩論」第二輯に詩『半蔭地選定』を出したが(宮城, 1977)、同年9月21日死去した。同年10月23日、花巻町役場で「追悼講演会」があり、心平ら3名が講演した。心平は1934年1月に「宮沢賢治追悼」を編集・出版、10月に「宮沢賢治全集」第1巻を文圃堂書店から刊行、翌年9月に全3巻が完結した。
心平は「カエル」の詩で有名だが、無類の石好きであり、「自分はどういうわけか加工された宝石類には…興味がない…自分がひかれるのは、むしろそれらを含んでいる母岩である」(『方々の石』和田博文編2021「石の文学館」ちくま文庫)と言って、世界旅行で小石を拾い集めた。「私にはどうも地球創成期への郷愁みたいなものがあるらしく、石もどうやらそれに続くものの一つとして自分には近い存在である」(同前)。心平の詩『石』を示す。「雨に濡れて。/独り。/石がいる。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」(1940, 詩集「絶景」)。
永瀬清子(1906-1995)は岡山県赤磐市松木出身の詩人で、東京在住の1932年春(白根直子 2026『論攷宮沢賢治』第22号 )に名刺の注文を取りに来た心平から賢治の「春と修羅」を渡され、その感想を1933年の「麺麭」(パン)8月号に書いた。これは賢治の生前に出た辻?? 潤、心平、佐藤惣之助に次ぐ最後の作品評である。1934年2月16日、東京新宿3丁目帝都座地下の「モナミ」で宮沢賢治追悼の会があり、心平の誘いで清子も参加し、高村光太郎や宮沢清六(賢治の弟)らと会った。その場で、清六が持参した賢治のトランクから「雨ニモマケズ手帳」が出現した状況を、清子が詳しく記している(1981「かく逢った」編集工房ノアp. 43-70;藤原菜穂子2011「永瀬清子とともに」思潮社p. 77に集合写真)。
清子が賢治を知った1932年より前の1930年に出版した詩集「グレンデルの母親」にも「新鮮な礦物のやうな/夜の潭(ふか)みからのぼる月の光」などの詩句があり、「幾億年古い世より/私は在るらしい」(1947『天空歌』「大いなる樹木」)や「私は地球だ/そこに生きていてそしてそのものと同じだ」(1972『私は地球』「海は陸へと」)など地球との長大な時空的一体感がある(石渡 2020日本地質学会News, 23(12), 6-7)。清子は賢治を深く思慕していた(1977『賢治思慕』「流れる髪」)。
賢治・心平・清子の出身地は、低山に囲まれた盆地の地形が共通し、数千万年以前の地層や花崗岩の山上に苦鉄質・超苦鉄質岩が鎮座する地質の共通点がある。そして近くには奥羽脊梁の鉱山群、常磐炭田、柵原鉱山など当時稼働中の重要な鉱山があった。これらの地に3人の「地学系」詩人が育ったのは、偶然と思えない。
この3人の地学的な時空感覚は、谷川俊太郎(1931-2024)の「二十億光年の孤独」(1952創元社, 2008集英社文庫)等に受け継がれ、科学と折り合って自然と向き合う現代日本人の心を涵養し続けている。
草野心平(1903-1988)は福島県いわき市小川町出身の詩人で、生前はほとんど無名だった賢治の作品を世に広めるのに大きく貢献した。以下、心平(1980)編「新修宮沢賢治全集別巻」筑摩書房と同(2010)「草野心平詩集」ハルキ文庫の年譜より経緯を抜粋する。28歳の賢治は1924年4月に心象スケッチ「春と修羅」、12月に童話「注文の多い料理店」を各1,000部自費出版したが、あまり売れなかった。21歳の心平は中国の嶺南(中山)大学に留学中だったが、同年9月に友人から届いた「春と修羅」を読んで感動し、翌1925年に帰国後、賢治を心平らの「銅鑼」同人に勧誘した。賢治からは「私は、詩人としては自信がありませんが、一個のサイエンチストとしては、認めていただきたいと思います」との返事と詩2編及び1円の為替が届いた(北条常久2009「詩友 国境を越えて 草野心平と光太郎・賢治・黄瀛」風濤社p. 123)。心平は1926年「詩神」8月号の評論『三人』で賢治を天才と激賞し、1931年には同誌7月号に『宮沢賢治論』を発表した。賢治は、1931~1932年、「児童文学」に『グスコーブドリの伝記』など2編の童話、1933年、吉田一穂らの「新詩論」第二輯に詩『半蔭地選定』を出したが(宮城, 1977)、同年9月21日死去した。同年10月23日、花巻町役場で「追悼講演会」があり、心平ら3名が講演した。心平は1934年1月に「宮沢賢治追悼」を編集・出版、10月に「宮沢賢治全集」第1巻を文圃堂書店から刊行、翌年9月に全3巻が完結した。
心平は「カエル」の詩で有名だが、無類の石好きであり、「自分はどういうわけか加工された宝石類には…興味がない…自分がひかれるのは、むしろそれらを含んでいる母岩である」(『方々の石』和田博文編2021「石の文学館」ちくま文庫)と言って、世界旅行で小石を拾い集めた。「私にはどうも地球創成期への郷愁みたいなものがあるらしく、石もどうやらそれに続くものの一つとして自分には近い存在である」(同前)。心平の詩『石』を示す。「雨に濡れて。/独り。/石がいる。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」(1940, 詩集「絶景」)。
永瀬清子(1906-1995)は岡山県赤磐市松木出身の詩人で、東京在住の1932年春(白根直子 2026『論攷宮沢賢治』第22号 )に名刺の注文を取りに来た心平から賢治の「春と修羅」を渡され、その感想を1933年の「麺麭」(パン)8月号に書いた。これは賢治の生前に出た辻?? 潤、心平、佐藤惣之助に次ぐ最後の作品評である。1934年2月16日、東京新宿3丁目帝都座地下の「モナミ」で宮沢賢治追悼の会があり、心平の誘いで清子も参加し、高村光太郎や宮沢清六(賢治の弟)らと会った。その場で、清六が持参した賢治のトランクから「雨ニモマケズ手帳」が出現した状況を、清子が詳しく記している(1981「かく逢った」編集工房ノアp. 43-70;藤原菜穂子2011「永瀬清子とともに」思潮社p. 77に集合写真)。
清子が賢治を知った1932年より前の1930年に出版した詩集「グレンデルの母親」にも「新鮮な礦物のやうな/夜の潭(ふか)みからのぼる月の光」などの詩句があり、「幾億年古い世より/私は在るらしい」(1947『天空歌』「大いなる樹木」)や「私は地球だ/そこに生きていてそしてそのものと同じだ」(1972『私は地球』「海は陸へと」)など地球との長大な時空的一体感がある(石渡 2020日本地質学会News, 23(12), 6-7)。清子は賢治を深く思慕していた(1977『賢治思慕』「流れる髪」)。
賢治・心平・清子の出身地は、低山に囲まれた盆地の地形が共通し、数千万年以前の地層や花崗岩の山上に苦鉄質・超苦鉄質岩が鎮座する地質の共通点がある。そして近くには奥羽脊梁の鉱山群、常磐炭田、柵原鉱山など当時稼働中の重要な鉱山があった。これらの地に3人の「地学系」詩人が育ったのは、偶然と思えない。
この3人の地学的な時空感覚は、谷川俊太郎(1931-2024)の「二十億光年の孤独」(1952創元社, 2008集英社文庫)等に受け継がれ、科学と折り合って自然と向き合う現代日本人の心を涵養し続けている。
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