講演情報
[生涯スポーツ-SA-2]なぜランニングの授業は不人気で、生涯スポーツにつながらないか
*佐藤 善人1 (1. 椙山女学園大学)
<演者略歴>
小中学校教員(1995年~)、岐阜聖徳学園大学(2008年~)、東京学芸大学(2016年~)、2025年より椙山女学園大学教育学部教授。博士(学校教育学)。主な著書に、持久走・長距離走の授業革命-「つらいだけ」から「楽しい」への実践アイデア(2025年)、スポーツと君たち-10代のためのスポーツ教養(2019年)がある。2021年ランニング学会賞受賞。
小中学校教員(1995年~)、岐阜聖徳学園大学(2008年~)、東京学芸大学(2016年~)、2025年より椙山女学園大学教育学部教授。博士(学校教育学)。主な著書に、持久走・長距離走の授業革命-「つらいだけ」から「楽しい」への実践アイデア(2025年)、スポーツと君たち-10代のためのスポーツ教養(2019年)がある。2021年ランニング学会賞受賞。
体育授業は、子どもの豊かなスポーツライフの実現に寄与することが目指されている。小学校から高等学校まで必修であり、実に多くの時間をかけて運動・スポーツの学習を実施している。しかしながら、少なくない数の体育嫌い・運動嫌いを生んでいることは現実であるし、その代表格は持久走・長距離走(以下、ランニング)の授業である。この状況は改善されるべきであるが、一向にその兆しは見えず、ランニングの授業自体が豊かなスポーツライフの一場面とはなっていないと思われる。この状況を生み出している責任を教師や子どもといった個人に見出そうとするならば、問題を改善することは難しいであろう。
アイリス・マリオン・ヤング(2022)は、社会における不正義を改革するには、自己責任から政治責任へ目を向ける必要性があると訴えている。また、2025年はじめに放送されたTBS系ドラマ「御上先生」において、主人公の教師が「The personal is political」(個人的なことは政治的なこと)を用いて話題となった。ランニング嫌いを生んでいる体育授業の責任は、教師や子ども個人にあるのではなく、ランニングを取り巻く政治や社会の構造にあるとは言えないだろうか。
例えば、小学校学習指導要領解説体育編(2018)には、体つくり運動に「かけ足」あるいは「持久走」としてランニングは位置づいている。すなわち、「ランニング=体力向上の手段」であり、その魅力を味わわせにくい状況をつくり出している。あるいはメディアはトップアスリートスポーツとしてのランニングを報道する。これらは「ランニング=速さ(苦しさ)」といったステレオタイプを社会全体に浸透させており、その状況が、速く走らせること/走ることを、教師/子どもに強要しているとは考えられないだろうか。
一人でも多くの子どもが運動・スポーツを楽しみ、豊かなスポーツライフを実現することを目指して、体育授業におけるランニングの現状を契機として考えてみたい。
アイリス・マリオン・ヤング(2022)は、社会における不正義を改革するには、自己責任から政治責任へ目を向ける必要性があると訴えている。また、2025年はじめに放送されたTBS系ドラマ「御上先生」において、主人公の教師が「The personal is political」(個人的なことは政治的なこと)を用いて話題となった。ランニング嫌いを生んでいる体育授業の責任は、教師や子ども個人にあるのではなく、ランニングを取り巻く政治や社会の構造にあるとは言えないだろうか。
例えば、小学校学習指導要領解説体育編(2018)には、体つくり運動に「かけ足」あるいは「持久走」としてランニングは位置づいている。すなわち、「ランニング=体力向上の手段」であり、その魅力を味わわせにくい状況をつくり出している。あるいはメディアはトップアスリートスポーツとしてのランニングを報道する。これらは「ランニング=速さ(苦しさ)」といったステレオタイプを社会全体に浸透させており、その状況が、速く走らせること/走ることを、教師/子どもに強要しているとは考えられないだろうか。
一人でも多くの子どもが運動・スポーツを楽しみ、豊かなスポーツライフを実現することを目指して、体育授業におけるランニングの現状を契機として考えてみたい。
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