講演情報
[01史-口-03]スポーツ教育者・可児徳と雑誌『國民體育』との関係米国留学後3年間(1918-1920)に着目して
*山田 浩平1 (1. 筑波大学大学院)
可児徳(かに・いさお)は日本のスポーツ創成期に関わった教育者である。2019年に放送された大河ドラマ『いだてん』では、日本人初のオリンピック出場に貢献した人物、また日本の女子体育の普及に貢献した人物として登場し、可児が日本のスポーツ史において多大なる功績を残したことが広く知れ渡った。
可児がスポーツや女子体育の普及に生涯をささげることとなったきっかけの1つに米国留学が挙げられる。彼は1915年の2月から1917年の11月まで、体育状況の視察を目的に約3年間アメリカに留学した。米国留学が可児にとって極めて貴重な経験であったことは、複数の研究で明らかにされている。そして、彼が特に多くの記事を寄稿した雑誌が『國民體育』であった。
『國民體育』は1915年に石橋蔵五郎によって創刊された体育・スポーツ雑誌である。可児は留学後の1918年から1920年の3年間で『國民體育』に29本の記事を寄稿している。また同雑誌には、可児をテーマとした他者の記事、可児の行動を掲載した記事、可児執筆の著書の出版を知らせる広告など、可児に関連した98本の記事が掲載されている。記事の本数を見るだけでも、可児徳と『國民體育』が非常に深い関係にあったことは明白であるが、その記事の内容、雑誌の形態、雑誌発行の背景など、あらゆる側面から多角的に分析することで、両者の関係がより強固なものであることを明らかに出来る可能性がある。
本研究では、スポーツ教育者・可児徳と雑誌『國民體育』との関係を、可児の米国留学後3年間に着目して明らかにすることを目的とする。この両者の強固な関係を明らかにすることは、米国留学後の可児徳について考察するうえで『國民體育』が貴重な史料となることを証明し、今後の可児徳に関する人物史研究の一助となることが期待される。さらに、それに付随して『國民體育』の史料的価値の正しい認識にもつながることが期待される。
可児がスポーツや女子体育の普及に生涯をささげることとなったきっかけの1つに米国留学が挙げられる。彼は1915年の2月から1917年の11月まで、体育状況の視察を目的に約3年間アメリカに留学した。米国留学が可児にとって極めて貴重な経験であったことは、複数の研究で明らかにされている。そして、彼が特に多くの記事を寄稿した雑誌が『國民體育』であった。
『國民體育』は1915年に石橋蔵五郎によって創刊された体育・スポーツ雑誌である。可児は留学後の1918年から1920年の3年間で『國民體育』に29本の記事を寄稿している。また同雑誌には、可児をテーマとした他者の記事、可児の行動を掲載した記事、可児執筆の著書の出版を知らせる広告など、可児に関連した98本の記事が掲載されている。記事の本数を見るだけでも、可児徳と『國民體育』が非常に深い関係にあったことは明白であるが、その記事の内容、雑誌の形態、雑誌発行の背景など、あらゆる側面から多角的に分析することで、両者の関係がより強固なものであることを明らかに出来る可能性がある。
本研究では、スポーツ教育者・可児徳と雑誌『國民體育』との関係を、可児の米国留学後3年間に着目して明らかにすることを目的とする。この両者の強固な関係を明らかにすることは、米国留学後の可児徳について考察するうえで『國民體育』が貴重な史料となることを証明し、今後の可児徳に関する人物史研究の一助となることが期待される。さらに、それに付随して『國民體育』の史料的価値の正しい認識にもつながることが期待される。
コメント
コメントの閲覧・投稿にはログインが必要です。ログイン