講演情報
[T3-O-6]胆振地方東部における17世紀巨大津波の来襲年代の推定-家屋の数に注目して-
*シン ウォンジ1 (1. 国立アイヌ民族博物館)
キーワード:
北海道、津波堆積物、17世紀、歴史資料
北海道を来襲した直近の巨大津波は17世紀のものとされ,その津波堆積物は太平洋沿岸および内浦湾沿岸において広い範囲で報告されている.17世紀の巨大津波は,道東海岸のいわゆる“500年間隔地震”による津波,1640年北海道駒ヶ岳の山体崩壊による津波,胆振地方東部海岸の波源不明の津波の3つにまとめられる(髙清水,2013).その中で,白老町からむかわ町に至る胆振地方東部海岸においては,津波堆積物の存在は認められているが,その波源については議論が続いてきた.中西ほか(2014)は,白老地域におけるイベント堆積物の分布と粒度の特性から,千島海溝付近でのプレート境界地震を震源域とした津波による可能性を示している.また,中西・岡村(2019)は,内浦湾沿岸から胆振地方海岸を対象にした津波数値シミュレーションから,1640年北海道駒ヶ岳噴火に伴う津波で説明可能であることを示している.さらに,西村ほか(2023)は,厚真町の津波堆積物とその上位のUs-bテフラ(1663年)の間に介在した泥炭の年代から,1611年の慶長奥州地震津波の痕跡である可能性が高いことを示している.
一方,シン・八幡(2022)は,白老に伝わるアイヌ民族の口承において,共通して巨大津波による集落全滅の内容が含まれていることや,その後の移住者に関する情報から,白老を巨大津波が襲った時期は1611年の慶長三陸地震の可能性が高いと推定した.しかし,アイヌの口承から津波に襲われた可能性のある地域を読み取ることはできるが,年代に関する事項はほとんど登場しないため(髙清水,2005),口承の中に出てくる年代については慎重に検討する必要がある.本研究では,17世紀に巨大津波が胆振地方東部海岸を襲った年代を推定するために,1611年慶長三陸地震津波と1640年北海道駒ヶ岳噴火に伴う津波の2つの候補について,史料に記録されている家屋の数に注目して検討する.
本研究の対象となる『津軽一統志巻第十』は,1669年(寛文9)のシャクシャインの戦いに関する記録である.松前藩に応援を求められ松前城下に派遣された津軽藩士は,見聞きした情勢を藩主に報告した.1731年(享保16)津軽藩史『津軽一統志』が編さんされるとき,当時の藩主津軽信政の功として,この事件に関する文書が巻第十に一括して納められた.市井の聞き書きで誤りもあるが,当時の状況を知るにはこれ以上の資料はないと評価されている(北海道,1969).
松前を出発して各沿岸までについて,その地名と距離,家屋の数等を記録した「松前より下狄地所付」には,内浦湾から胆振地方の沿岸に関する情報も含まれている.1640年北海道駒ヶ岳噴火に伴う津波の指標となるKo-dテフラ(1640年)に覆われた津波堆積物が,森町鷲ノ木から伊達市アルトリ(西村・宮地,1998),登別市富岸(岡村ほか,2012)まで分布が報告されているため,本研究では,現在の森町から登別市までをその被害地域とし,白老町からむかわ町までの胆振地方東部と家屋の数およびその状態の比較を行った.「もり」(森)から「のほりへつ」(登別)までの約150 kmに至る区間においては,22ヶ所の地名が記録されており,その中で家屋の数が記録されているのは15ヶ所である.家屋数の合計は88~92軒であり,空き家が43~46軒である.「あいろ」(アヨロ)から「む川」(鵡川)までの約70 kmの区間では,10ヶ所の地名のうち,8ヶ所において家屋の数が記録されており,家屋数の合計は174~177軒,空き家はない.空き家が記録されている場所は,「かやへ」(茅部)4~5軒,「おさるへつ」(長流)25軒,おいなおし(老名牛)5軒,「ほろへつ」(幌別)4~5軒,「のほりへつ」5~6軒である.この記録が1640年から30年後を前後して成立したことを考えると,現在の森町から登別市までの間は,津波の被害により空き家になった可能性がある.さらに,白老町からむかわ町までの間に空き家がないことは,1640年の津波の被害が大きくなかったことを示唆するため,胆振地方東部における17世紀の津波堆積物は,1611年の慶長三陸地震によるものである可能性が高いと考えられる.
<引用文献> 北海道(1969)新北海道史,7,81-200.中西ほか(2014)地学団体研究会専報,60,169-178.中西・岡村(2019)地質学雑誌,125(12),835-851.西村・宮地(1998)火山,43(4),239-242.西村ほか(2023)日本地球惑星科学連合2023大会,MIS16-08.岡村ほか(2012)苫小牧市博物館館報,9,15-24.シン・八幡(2022)日本地質学会学術大会講演要旨,T8-O-9.髙清水(2005)歴史地震,20,183-199.髙清水(2013)地質学雑誌,119(9),599-612.
一方,シン・八幡(2022)は,白老に伝わるアイヌ民族の口承において,共通して巨大津波による集落全滅の内容が含まれていることや,その後の移住者に関する情報から,白老を巨大津波が襲った時期は1611年の慶長三陸地震の可能性が高いと推定した.しかし,アイヌの口承から津波に襲われた可能性のある地域を読み取ることはできるが,年代に関する事項はほとんど登場しないため(髙清水,2005),口承の中に出てくる年代については慎重に検討する必要がある.本研究では,17世紀に巨大津波が胆振地方東部海岸を襲った年代を推定するために,1611年慶長三陸地震津波と1640年北海道駒ヶ岳噴火に伴う津波の2つの候補について,史料に記録されている家屋の数に注目して検討する.
本研究の対象となる『津軽一統志巻第十』は,1669年(寛文9)のシャクシャインの戦いに関する記録である.松前藩に応援を求められ松前城下に派遣された津軽藩士は,見聞きした情勢を藩主に報告した.1731年(享保16)津軽藩史『津軽一統志』が編さんされるとき,当時の藩主津軽信政の功として,この事件に関する文書が巻第十に一括して納められた.市井の聞き書きで誤りもあるが,当時の状況を知るにはこれ以上の資料はないと評価されている(北海道,1969).
松前を出発して各沿岸までについて,その地名と距離,家屋の数等を記録した「松前より下狄地所付」には,内浦湾から胆振地方の沿岸に関する情報も含まれている.1640年北海道駒ヶ岳噴火に伴う津波の指標となるKo-dテフラ(1640年)に覆われた津波堆積物が,森町鷲ノ木から伊達市アルトリ(西村・宮地,1998),登別市富岸(岡村ほか,2012)まで分布が報告されているため,本研究では,現在の森町から登別市までをその被害地域とし,白老町からむかわ町までの胆振地方東部と家屋の数およびその状態の比較を行った.「もり」(森)から「のほりへつ」(登別)までの約150 kmに至る区間においては,22ヶ所の地名が記録されており,その中で家屋の数が記録されているのは15ヶ所である.家屋数の合計は88~92軒であり,空き家が43~46軒である.「あいろ」(アヨロ)から「む川」(鵡川)までの約70 kmの区間では,10ヶ所の地名のうち,8ヶ所において家屋の数が記録されており,家屋数の合計は174~177軒,空き家はない.空き家が記録されている場所は,「かやへ」(茅部)4~5軒,「おさるへつ」(長流)25軒,おいなおし(老名牛)5軒,「ほろへつ」(幌別)4~5軒,「のほりへつ」5~6軒である.この記録が1640年から30年後を前後して成立したことを考えると,現在の森町から登別市までの間は,津波の被害により空き家になった可能性がある.さらに,白老町からむかわ町までの間に空き家がないことは,1640年の津波の被害が大きくなかったことを示唆するため,胆振地方東部における17世紀の津波堆積物は,1611年の慶長三陸地震によるものである可能性が高いと考えられる.
<引用文献> 北海道(1969)新北海道史,7,81-200.中西ほか(2014)地学団体研究会専報,60,169-178.中西・岡村(2019)地質学雑誌,125(12),835-851.西村・宮地(1998)火山,43(4),239-242.西村ほか(2023)日本地球惑星科学連合2023大会,MIS16-08.岡村ほか(2012)苫小牧市博物館館報,9,15-24.シン・八幡(2022)日本地質学会学術大会講演要旨,T8-O-9.髙清水(2005)歴史地震,20,183-199.髙清水(2013)地質学雑誌,119(9),599-612.
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