講演情報
[T3-O-21][招待講演]立石寺の石造文化財
*荒木 志伸1 (1. 山形大学)
【ハイライト講演】荒木氏の専門は考古学であり,立石寺,松島,出羽三山などの霊場で石像文化財の調査・研究を行っている.石像文化財を地質学的に見るときには岩石やその産地に注目することが多い.地質学者とは異なった,考古学者の視点から石造文化財をどのように研究しているのかについて,特に山形市北東部に位置する立石寺を中心に講演していただく.(ハイライト講演とは...)
キーワード:
石造文化財、立石寺、霊場
立石寺は貞観2年(860)慈覚大師円仁による開山とされる古刹で、江戸時代には庶民信仰の霊場として繁栄した。しかし、山内に残された文化財に関する考古学的研究は僅かで、モノ資料からみた霊場の検討は進んでいない。こうしたなか、2009 年に開催された日本考古学協会山形大会は画期的な機会であった。しかし、立石寺に残る石造文化財は1000基を超えることもあり、その後も本格的な調査の機会はなかった。
発表者は、立石寺山内に分布する近世期の石造文化財・約1200基の悉皆調査を2005年から進めてきた。その紀年銘と形式の検討から、磨崖供養碑〈崖面に直接刻むもの:256基〉は近世初期~中頃、石塔類〈墓石や供養塔:844基〉は近世中頃~末頃,石燈籠〈113 基〉は近世後期以降という変遷過程を明らかにした(荒木2012)。銘文については戒名、供養願文、地名、施主名の分析も進め『おくの細道』の記述や『山寺状』等の 周辺資料も含めて総合的に解釈した。その結果、立石寺は大永年間に一山焼失したのち近世中頃までは山形盆地周辺の人々が深く関与しつつ復興を遂げた、地域密着型の霊場としての様相がみえてきた。
東北地方の他霊場の石造文化財との比較検討もすすめている。特に松島(瑞巌寺・雄島)について、磨崖供養碑の形式についての異なる傾向や、銘文内容にみえる建立者の性格についても検討した(荒木, 2023a)。さらに立石寺の磨崖供養碑はその復興期の年代に該当するものであるが、建立者に関する階層や地域などについても検証している(荒木, 2023b)。近年立石寺奥の院で発見された木札といったモノ資料も含めた総合的検討により、霊場・立石寺をささえた人々の具体的様相が明らかになりつつある(荒木, 2024)。
【引用文献】
・荒木志伸(2012)立石寺の霊場変遷と景観. 考古学雑誌、 第96巻第4号,、11-31頁
・荒木志伸(2023a)石造文化財からみた霊場・松島 -立石寺との比較検討-、山形大学歴史・地理・人類学論集24号、 16-32頁
・.荒木志伸(2023b)立石寺弥陀洞の磨崖供養碑-供養碑建立者に関する検討-、村山民俗37号, 1-10頁
・荒木志伸(2024)立石寺奥の院から発見された木札資料、 村山民俗38号、57-60頁
発表者は、立石寺山内に分布する近世期の石造文化財・約1200基の悉皆調査を2005年から進めてきた。その紀年銘と形式の検討から、磨崖供養碑〈崖面に直接刻むもの:256基〉は近世初期~中頃、石塔類〈墓石や供養塔:844基〉は近世中頃~末頃,石燈籠〈113 基〉は近世後期以降という変遷過程を明らかにした(荒木2012)。銘文については戒名、供養願文、地名、施主名の分析も進め『おくの細道』の記述や『山寺状』等の 周辺資料も含めて総合的に解釈した。その結果、立石寺は大永年間に一山焼失したのち近世中頃までは山形盆地周辺の人々が深く関与しつつ復興を遂げた、地域密着型の霊場としての様相がみえてきた。
東北地方の他霊場の石造文化財との比較検討もすすめている。特に松島(瑞巌寺・雄島)について、磨崖供養碑の形式についての異なる傾向や、銘文内容にみえる建立者の性格についても検討した(荒木, 2023a)。さらに立石寺の磨崖供養碑はその復興期の年代に該当するものであるが、建立者に関する階層や地域などについても検証している(荒木, 2023b)。近年立石寺奥の院で発見された木札といったモノ資料も含めた総合的検討により、霊場・立石寺をささえた人々の具体的様相が明らかになりつつある(荒木, 2024)。
【引用文献】
・荒木志伸(2012)立石寺の霊場変遷と景観. 考古学雑誌、 第96巻第4号,、11-31頁
・荒木志伸(2023a)石造文化財からみた霊場・松島 -立石寺との比較検討-、山形大学歴史・地理・人類学論集24号、 16-32頁
・.荒木志伸(2023b)立石寺弥陀洞の磨崖供養碑-供養碑建立者に関する検討-、村山民俗37号, 1-10頁
・荒木志伸(2024)立石寺奥の院から発見された木札資料、 村山民俗38号、57-60頁
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