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[T9-O-2]鉱物教科書から探るヒスイ輝石岩(硬玉)とネフライト(軟玉)の呼称の歴史

*小河原 孝彦1 (1. フォッサマグナミュージアム)
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硬玉、軟玉、糸魚川ユネスコ世界ジオパーク

 新潟市糸魚川で産出するヒスイ輝石岩(以下,ヒスイ)は,2016年に日本鉱物科学会によって日本の国石に認定された.過去にヒスイ(Jade)と呼ばれていた岩石は,ヒスイ輝石を主成分とする「硬玉(Jadeite)」と,透閃石などの角閃石からなる「軟玉(Nephrite)」の二つに大別される.両者の外観は酷似しているが,現在では全く別の鉱物として認識されている.本発表では,西洋の近代鉱物学が導入された明治時代から昭和初期にかけて出版された教科書や専門書を渉猟し,硬玉と軟玉の呼称が日本でどのように導入され,どのような混乱を経て,いかにして正しく区別・定着していったのか,その歴史的変遷を文献に基づき詳細に報告する.

江戸時代まで,日本の鉱物に関する学問は,中国から伝来した薬物を研究する本草学の系譜にあった.小野 蘭山が著した『本草綱目啓蒙』(19世紀)には,「翡翠」について「かわせみの鳥の羽の青みどりに似て」いることから名付けられたとあり,その美しい語源が示されている.しかし,これはあくまで博物学的な記述であり,鉱物学的な組成や物理的性質に基づく分類ではなかった.

明治維新を迎え,政府が富国強兵政策のもとで鉱山開発や資源探査を推進すると,西洋から近代地質学・鉱物学が積極的に導入された.ナウマン(H. E. Naumann)をはじめとするお雇い外国人教師により,近代的な鉱物教育が始まったが,ヒスイを含む鉱物の名称は当初大きな混乱の中にあった.例えば,1876年(明治 9年)に文部省が発行した『百科全書 鉱物篇』では,「翡翠玉」をエメラルド(翠玉)と記載している.さらに1880年(明治13年)の『鉱物字彙』では「翡翠石」が「金星石」と同一とされ,1892年(明治25年)の官報では,その「金星石」が商業製品としての「雲母(Mica)」を指すと掲載されるなど,用語の定義は極めて曖昧で,安定していなかった.

著者が国立国会図書館で調査した限り,「硬玉」「軟玉」の訳語が日本の文献に初めて登場するのは,1894年(明治27年)に出版された敬業社編『普通鉱物学教科書』である.しかし,この教科書では硬玉(Jadeite)と軟玉(Nephrite)の性質が完全に入れ替わって記述されていた.本来は輝石の一種である硬玉を角閃石とし,角閃石の一種である軟玉を輝石と説明して,硬度も誤って記載している.この重大な誤りは,一度だけではなく.東京帝国大学で教鞭をとった西松二郎,脇水鉄五郎,比企忠といった,当時の日本の地質学・鉱物学を牽引した権威ある学者たちが編纂した教科書においても,この誤りがそのまま引き継がれ,改訂版ですら訂正されることはなかった.その結果,1894年(明治27)年から1908年(明治41)年にかけて出版された鉱物関連の専門書や教科書19冊を調査したところ,その内の16冊,割合にして84%でこの誤りが確認された(図1).この誤用の原因を本研究では特定できなかったが,彼らが参考にしたと考えられる海外の教科書(例えばA Text-book of Mineralogy, 1877)に誤用はなく,日本での翻訳・編纂過程で生じた混同が,学界の権威によって再生産・固定化されてしまったものと推察される.
この硬玉と軟玉の誤用は,大正時代(1912年)以降になると解消される.坂田勲『最新鉱物界精義』1925(大正14)年や,木下亀城らによる『鉱物学概論』1933(昭和8)年などでは,硬玉と軟玉を正しく区別して記載されるようになった.

明治期の日本における近代鉱物学の受容過程において,ヒスイ(硬玉)とネフライト(軟玉)の呼称と定義には,約15年間にも及ぶ深刻な混乱期が存在した.この混乱は,学界の権威が執筆した教科書を通じて広く浸透したが,大正期以降にようやく修正され,正しい知識が教育現場に普及した.この事例は,外見が酷似した硬玉と軟玉という鉱物の識別という本質的な困難さに加え,海外の学術知識を自国の言語体系へ正確に導入し,定着させることの複雑さと重要性を示す好例と言えるだろう.