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[T8-O-10]御前崎沖の島が1854年安政東海地震の地震断層で沈没した可能性

*石渡 明1 (1. なし)
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キーワード:

沖御前島、御前岩灯標、暗礁、海岸の隆起と島の沈降、古地図と古絵図

 日本には、大分県別府湾の瓜生島が1596年慶長豊後地震で沈没した等、島が地震で沈んだ伝説が複数ある。また、海溝型の大地震に伴って陸上に落差数mの断層が生じた近年の例も複数知られている(1923年関東地震M7.9:下浦・延命寺断層(地震と同時、海溝から25km)、1944年東南海地震M7.9:深溝断層(三河地震、37日後、130km)、2011年東北地方太平洋沖地震M9.0:湯ノ岳・井戸沢断層(福島県浜通地震、31日後、200km))。小論では1854年安政東海地震(M8.4)により駿河トラフから約30kmの静岡県御前崎沖で島が沈んだ可能性について述べる。
 現在、この海域に島はないが、暗礁が多く、御前崎東方沖約2.5kmの暗礁に御前(ごぜん)岩灯標が設置されている。産総研の1/20万地質図「静岡及び御前崎」第2版(2010)によると、御前崎の下部や御前岩は後期中新世~鮮新世の前弧堆積物(相良層群)からなり、御前崎ではこれを後期更新世~完新世の段丘堆積物が覆う。
 江戸時代の複数の地図や絵図は御前崎沖に島(岩)を描く。1728(享保13)年の「運上浜境図」(御前崎町史(1997), p. 308)は径約300mの沖御前岩を描く。1754(宝暦4)年の森幸安の「日本分野図」は御前崎沖に14の小島を描く。1791(寛政3)年の長久保赤水の「改正日本輿地路程全図第二版」は御前崎(ミマヤ(御厩)埼)沖に大きな沖御前島を描く。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は御前崎を1803 (享和3)年に測量したが(御前崎町史, p.393)、約4km沖まで東南東へ並ぶ20の小島に沖御前と記す。掛川の商人、兵頭庄右衛門が1803(享和3)年に完成した「遠江古蹟図絵」第三巻の「御﨑(見尾火)燈明堂」(御前崎に幕府が設置した灯台)の絵は、堂のある高台の海側に島を描く。1838 (天保9)年に浜松藩が幕府に提出した「遠江国絵図」は、約6km沖まで9つの島が東南東方向に並び、最も沖の最大の島に沖御前島と記す。1842(天保13)年の秋山永年の「富士見十三州輿地全図」も大きな沖御前岩と10の小島を描く。これらは1728-1842の115年間、御前崎沖に沖御前島が存在し続けたことを示す。
 沖御前島はいつ沈没したのか。1875(明治8)年の卜部精一の「新撰日本全図」に沖御前島はない。1877(明治10)年の宮脇通赫の「大日本分国輿地全図」は小さい沖ノ御前岩を1つ示す。大日本帝国陸地測量部の1/20万「神子元嶋」(1892)及び1/5万「御前崎」(1895)も御前崎沖に径数10mの岩を1つ示す。即ち、明治時代に入ると沖御前島は岩礁1つを残して海面下になった。島が沈んだのは1854年12月23日の安政東海地震時または翌年11月7日の最大余震時の可能性が高い(グレゴリオ暦)。
 しかし、安政東海地震では御前崎の海岸が0.9~1.2m隆起したとされる(石橋, 1984; 第四紀研究, 23, 105-110)。海岸が隆起し、沖御前島が沈没したなら、その間に落差2m以上の地震断層が生じた可能性がある。国土地理院の航空写真では、御前崎先端から約100m沖に暗礁が北北東―南南西に1.7kmにわたり並び、海の色の差から暗礁列の海側が下がる段差が示唆される。この段差は御前崎の既知の活断層(芹沢、広沢、白羽)と同走向であり、安政東海地震の地震断層の可能性がある。御前崎の活断層は相良層群の背斜軸に一致するので、水中ドローンで地層の傾斜の向きを観察すれば地震断層の位置を特定できるだろう。
 なお、安政東海地震で富士川河口の「蒲原地震山」が隆起したとされるが、最近は単なる川の中州だったとの説がある(田中圭ほか, 2018; 地学雑, 127(3), 305-323)。